ガイアナの開拓と設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 16:04 UTC 版)
「ジョーンズタウン」の記事における「ガイアナの開拓と設立」の解説
1972年から1973年にかけて、レスター・キンソルヴィング(英語版)による教団の致命傷になりかねない告発記事が出版され、加えてギャング・オヴ・エイトと呼ばれた8人の教団信者の脱退と告発があった。ジョーンズと人民寺院メンバーのティム・ストーン(英語版)は、警察やマスメディアからの弾圧に対する「即時対応」策を準備した。この計画では様々な案が検討されており、その中ではカナダへの逃走や、バルバドスやトリニダード島の様な地での『カリブ地方の伝道組織』(Caribbean missionary post)として逃亡するといった案も検討されていた。この『カリブ地方の伝道組織』を置く国として、人民寺院はその国の経済とアメリカ合衆国との犯罪人引渡し条約を調査し、短期間の内にガイアナを選定した。1973年10月には、人民寺院の指導者達はガイアナで農業計画を実行することを決定した。 ある部分では、人民寺院は自身の平等主義的政治姿勢のためにガイアナを選んだとされ、選定を行っている最中に更に左翼傾向を強めたとされる。人民寺院元信者のティム・カーターは、ガイアナを選んだ理由について、アメリカ合衆国政府の人種主義と多国籍企業による支配という人民寺院側の見解を挙げている。カーターによれば、ガイアナは圧倒的に先住民人口が多く、かつ卓越した黒人の指導者がいる英語を話す社会主義的国家であり、人民寺院の黒人信者が平和な生活を送れる場所であると結論付けられたとされる。後にガイアナ首相のフォーブス・バーナム(英語版)は、ジョーンズはおそらく「社会主義の確立のための基礎として協同組合を利用し、おそらく彼のコミューンを設立するというアイデアと協同組合を調和させたかったのだろう。」と述べている。またジョーンズはガイアナが貧しい小国ながら独立性が高いため、簡単に影響力と公的な庇護を手に入れることが出来る国であると考えていた。 1974年に、ジョーンズと人民寺院はガイアナの役人と共にガイアナ北西部へと訪問を行った後、ガイアナの首都・ジョージタウンの西150マイル (240 km)の場所にある熱帯雨林の土地、3,800エーカー(15.4km2)を借り受ける協定を結んだ。この場所は孤立した場所な上、ガイアナの標準的な土地と比較しても痩せた土地であった。更に最も近い水源まではぬかるんだ道を7マイル(11km)も移動しなければならなかった。加えて、ジョーンズタウンの立地はベネズエラとの国境紛争を抱えている場所から遠くない場所であり、当時のガイアナ政府には、アメリカ国民(教団信者)入植者の存在がベネズエラによる軍事侵攻を抑止する役に立つという期待もあった。
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