カロリング期の農村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 13:27 UTC 版)
カロリング期に入ると、気候の安定と国王や修道院による大所領の形成とともに農村は大きく発展した。8世紀から9世紀にかけて、1,000ヘクタール以上の規模におよぶような所領が発展し、その経営のために領地や収支を列挙する台帳(所領明細帳)が作成され、当時の農村経営を現代に伝えている。修道院所領に代表される大所領は領主直営地と農民保有地によって構成され、農民は第一に家屋と菜園、第二に農耕地(農民保有地)、第三に飼料の刈り取り地や、牧草地、放牧地や森林などからなる共同利用地の用益権の三要素を経営の基本単位として自立した経営体を形成していた。この三要素はフーフェ(独:Hufe)、あるいはマンス(仏:Manse)と呼ばれ、基本経営単位として農民一世帯ごとに設定されていた。このフーフェ(マンス)は領主が賦課税を行う単位でもあった。ただし均一な単位としては成立しておらず、その大きさは地域によりまちまちであった。 カロリング時代の所領経営では、農民の身分や課税内容は一様ではなく、村落共同体と呼べるような農村組織もまだ存在していなかった。その代わり、所領の枠組みの中で、領主直営地と農民保有地に関わる労働が、フーフェ(マンス)を保有する農民によって担われており、この意味で所領が農民生活の社会的単位を構成していたと言える。このような領主制のありかたは古典荘園制と呼ばれる場合が多い。 実際に「古典荘園制」下にある農村の例として、パリの北東20キロにあるヴィリエ・ル・セック(フランス語版)とバイエ・アン・フランス(フランス語版)で当時の遺跡が発掘されている。この2つの集落はカロリング期の典型的な集落であると考えられ、当時の大所領のひとつであるサン=ドニ修道院に所属していた。長さ12.5メートル、幅5、6メートルの長方形の母屋と、縦横数メートル程度の高床式、あるいは竪穴式の付属建造物が2、3棟あるまとまりが複数散在していたことが確認されており、それぞれが1つのフーフェ(マンス)を構成していたと推定されている。 栽培植物はメロヴィング期にはわずかな麦類のみだったのに対し、カロリング期には各種の麦類のほか、ソラマメ、エンドウマメ、ニンジンなどの野菜類や、リンゴ、ブドウなどの果樹、工芸用の亜麻など、多角的な農業が行われていたことが確認されている。家畜はウシ、ブタ、ヒツジ、ヤギ、ウマの順で多く発見され、時代とともにウシとウマの比率が上昇し、ブタが減少している。特に8世紀を境にウマは倍増しており、農耕や運搬にウマが使用されるようになったことを反映していると考えられる。
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