カロリング朝ブルグントとは? わかりやすく解説

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カロリング朝ブルグント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 17:18 UTC 版)

アルル王国」の記事における「カロリング朝ブルグント」の解説

534年フランク王国ブルグント王国征服してから、ブルグント王国領域フランク王国とそれに続くカロリング帝国支配された。 843年ルートヴィヒ1世840年死去)の3人の息子たちヴェルダン条約によってカロリング帝国分割したブルグント王国皇帝ロタール1世得た中フランク王国一部となったが、後にブルゴーニュ公国となる地域のみは西フランク王国シャルル禿頭王のものとなったルートヴィヒ2世ドイツ人王は東フランク王国得てライン川から東を領土とした。 855年中フランク王国領する皇帝ロタール1世はその死の直前に自らの王国を3人の息子分割して与えたブルグント遺領次男ロタール2世末弟プロヴァンスシャルル渡った863年シャルル869年ロタール2世継嗣なく死去すると、叔父である西フランクシャルル禿頭王東フランクのルートヴィヒドイツ人王870年メルセン条約結んでロタール2世シャルル領土分割したジュラ山脈北側のユーラブルグント(上ブルグント)はルートヴィヒドイツ人王得て残りシャルル禿頭王のものとなった875年までにロタール1世息子たち全て継嗣無く死に、残る下ブルグントシャルル禿頭王手に入れたシャルル禿頭王の子ルイ吃音王が死んだあとの混乱の中、西フランク王国プロヴァンスボソアルルキスユラブルグント王国(下ブルグント王国)を成立させた。キスユラブルグント王国一時消滅して、ルートヴィヒドイツ人王息子である皇帝シャルル肥満王が全フランク王国相続によって一時的に統一した。しかし888年カール3世が死ぬと、キスユラブルグント王国(下ブルグント)は復活した同時にブルグント伯でもあったオセールルドルフ1世が上ブルグント北西部ブルグント伯領内サン・モーリスにおいて、ユーラブルグント王国(上ブルグント)を設立した933年、キスユラブルグント(下ブルグント)を支配していたイタリア王ウーゴがユーラブルグント(上ブルグント)のルドルフ2世にキスユラブルグント(下ブルグント)を譲り渡したウーゴルドルフイタリア王位巡って争っていたが、ルドルフイタリア諦め代わりにキスユラブルグント(下ブルグント)を得たであったルドルフ上下ブルグント王国まとめてアルル王国とした。937年ルドルフの後を息子コンラート和王継いだその際ウーゴブルグント取り戻そうとしたが、ドイツ人の王(東フランク王)オットー1世介入もあって却下された。962年オットー1世皇帝になったが、コンラート和王の妹アーデルハイトオットー1世皇后である。コンラート和王56年長きわたってブルグント治めた993年死去し、跡を息子ルドルフ3世継いだ。しかしルドルフ3世は体が丈夫で無く嫡子誕生見込めなかった。1006年皇帝ハインリヒ2世が姉ギーゼラ息子であったため、ルドルフ3世アルル王位ブルグント王位)を皇帝相続させるという条約の締結強いられた1016年ルドルフはこの条約撤回しようとした失敗した

※この「カロリング朝ブルグント」の解説は、「アルル王国」の解説の一部です。
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