カレリア方面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 19:43 UTC 版)
フィンランド政府は、6月25日夜にソ連へ宣戦したものの、諸外国、国民、議会に、外的要因によって巻き込まれた戦争という印象を与えたかったので、ドイツ軍にもフィンランド領内からの攻勢作戦については数日の猶予を求め、ドイツ側も了承した。独ソ戦の開始に伴い、ドイツ北方軍集団のバルト諸国での進撃に対応するため、対フィンランド戦線に割り当てられていた多くのソ連軍部隊は転用され、フィンランド軍が攻勢を開始した時点では、フィンランド軍は歩兵で4:1,砲兵で9:1の数的優位であった。7月10日に、フィンランド軍はラドガ・カレリアで攻勢を開始し、7月23日にはラドガ・カレリアでの1939年国境に到達し、ラドガ・カレリアではフィンランド軍は防衛体制にはいった。カレリア地峡では、8月10日に攻勢を開始し、8月29日にはヴィープリは奪回され、8月31日に1939年国境に到達した。 一方、ドイツ北方軍集団は、8月31日にネヴァ川に到達し、9月8日にはシュリッセリブルク(ラドガ湖の南西端)が陥落し、レニングラードは包囲された。9月4日にOKW作戦部長のヨードル砲兵大将はミッケリのマンネルハイムの司令部で、カレリア地峡からレニングラードを攻撃するよう直談判したが、マンネルハイムはドイツと交渉中の穀物提供について悪影響を与えないために断りはしなかったが、ほんの少し申し訳程度にカレリア地峡で軍を進めただけだった。フィンランド軍は、ドイツ軍の希望に反して、方向違いのラドガ・カレリアとオロネッツ・カレリアでの攻勢を9月8日に再開し、9月22日には、スヴィリ川に到達し、その南岸に幅100km縦深20kmの橋頭堡を確保した。10月には、ドイツ軍はモスクワ攻略に戦力を集中するため、第4装甲集団は中央軍集団に引き抜かれ、北方軍集団はレニングラードを包囲したまま持久し、ヒトラーの命令でスヴィリ川のフィンランド軍と連結するための作戦が行われることになった。ドイツXXXIX装甲軍団によるチフヴィンを経由して、スヴィリ川のフィンランド軍を目指す攻勢は10月14日に始まった。ソ連軍の激しい抵抗と雨により泥濘と化した道路で、11月8日にはチフヴィンを占領した。しかし、激しいソ連軍の抵抗によりそれ以上の北進は無理で、ドイツ軍はチフヴィンに包囲される恐れがあった。12月9日に軍団司令官の撤退要請は承認され、ドイツ軍はチフヴィンから撤退し、スヴィリ川のフィンランド軍と手をつなぐことはなかった。一方、フィンランド軍は、10月1日には、カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国の首都ペトロザヴォーツクを陥落させた。既に厳しい冬が始まっていて、深い雪中での戦闘の末に、12月5日にオロネッツ・カレリア北部の中心都市メドヴェジエゴルスクが陥落し、フィンランド軍は防衛体制に移行すると共に、動員体制を一部解除し、年長の招集兵を民間に戻し始めた。12月8日に、フィンランド議会は、占領した地域を併合する法案を可決した。
※この「カレリア方面」の解説は、「継続戦争」の解説の一部です。
「カレリア方面」を含む「継続戦争」の記事については、「継続戦争」の概要を参照ください。
- カレリア方面のページへのリンク