オーラブ王によるキリスト教の強要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/11 05:57 UTC 版)
「アイスランドのキリスト教化」の記事における「オーラブ王によるキリスト教の強要」の解説
995年にオーラブ・トリグヴァソンがノルウェー王となった時から、アイスランドのキリスト教化を図る圧力が強まった。オーラブ王は、王権の確立より北欧へのキリスト教の導入に力を入れた趣があるが、千年紀の終わりが近くなったので人々を最後の審判から救済しようとしていたとも考えられる(シーグルズル・ノルダルによる指摘)。またオーラブ王はノルウェー滞在中のアイスランド人をミサに呼ぶなどしており、王自身の働きかけによってキリスト教を受け入れたアイスランド人もいた。そうした中にはアイスランド西区の首領の息子キャルタンや、詩人のハルフレッドがいる。 オーラブ王はアイスランドの改宗に取りかかった。王はステヴン(ステヴニル・ソルギルスソンとも。Stefnir Thorgilsson)という名のアイスランド人を、彼の同国人を改宗させるべく祖国に送り返した。ステヴンはかつて手荒く異教の聖域と神の像を破壊していったが、これは彼の評判を悪化させ、彼は結局はアイスランドから追放されていた。アイスランドでは、彼のその暴力的な布教活動がきっかけとなり、神々を冒涜した者をその人の一族において告発させる「一族の不名誉(frændaskömm)」という法律ができていた。また、身内の者がキリスト教に改宗するとその人を「一族の恥」と呼ぶ風潮になっていた。そのためステヴンは間もなく告訴されてしまいノルウェーに戻らざるを得なくなった。ステヴンが失敗した後、オーラブはタングブランド(サングブランドとも)という名の聖職者をアイスランドに送った。タングブランドは、ノルウェーとフェロー諸島で改宗を迫ったことのある、経験豊かな宣教師であった。997年頃から999年頃にかけてのアイスランドでの彼の布教は、ある程度成功したに留まった。彼は、アイスランドに到着直後に滞在中の生活を援助してくれた有力なゴジ(族長)、シーダのハル(Síðu-Hallur)とその家族に改宗を決意させた。また、ヒャルティ・スケッギャソンや彼の義父の〈白い〉ギツール(Gissur hvíti Teitsson)といった、数人の有力なアイスランド人の族長を改宗させた。しかしその過程で2、3人の男性を殺した。タングブランドは999年にノルウェーに戻り、彼が改宗に失敗した旨をオーラブ王に報告した。するとオーラブ王は、アイスランド人に対して直ちにより攻撃的な姿勢をみせた。王はアイスランドからの船での旅行者に対しノルウェーの港への出入りを拒否し[要出典]、ノルウェーに滞在中のアイスランド人の出航を禁じ、さらに数人のアイスランド人を捕らえて人質とした。これにより、アイスランドとその主な貿易相手国の間でのすべての取り引きが絶たれた[要出典]。捕らえられた人質の一部は、有力なアイスランド人族長の息子であり、王はアイスランド人がキリスト教を受け入れない限りは殺すなり危害を加えるなりすると脅迫した。王はまたアイスランドへ派兵することも考えていた。ギツールとヒャルティは王にアイスランドの改宗を約束して彼らを釈放してもらい、アイスランドへ赴いた。 アイスランド共和国(en)における限定的な外交政策は、もっぱらノルウェーとの良い関係を維持することでほぼ成立していた。アイスランドにいるキリスト教徒は、改宗への努力を進める上で、王の強制力を用いた。異教とキリスト教という2つの対抗する宗教は、じきに国を分裂させ、内戦の兆しも見えてきた。
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