オーストラリア (映画)
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オーストラリア | |
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Australia | |
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撮影風景
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監督 | バズ・ラーマン |
脚本 | バズ・ラーマン ロナルド・ハーウッド スチュアート・ビーティー リチャード・フラナガン |
原案 | バズ・ラーマン |
製作 | バズ・ラーマン キャサリン・ナップマン G・マック・ブラウン |
出演者 | ニコール・キッドマン ヒュー・ジャックマン デビッド・ウェナム ブライアン・ブラウン |
音楽 | デヴィッド・ハーシュフェルダー |
撮影 | マンディ・ウォーカー |
編集 | ドディ・ドーン マイケル・マカスカー |
配給 | 20世紀フォックス |
公開 | ![]() ![]() ![]() |
上映時間 | 165分 |
製作国 | ![]() ![]() |
言語 | 英語 |
製作費 | $130,000,000[1] |
興行収入 | ![]() |
『オーストラリア』(Australia)はバズ・ラーマン監督の映画である。脚本はスチュアート・ビーティーとロナルド・ハーウッド、オーストラリアのスターのニコール・キッドマンとヒュー・ジャックマンが主役。撮影はシドニー、ダーウィン、カナナラとボーウェンで行われた。映画公開日は2008年11月13日にオーストラリア、同年11月16日にアメリカ合衆国、同年12月から他の国で公開され、日本では2009年2月28日に公開された。
あらすじ
第2次世界大戦勃発前、イングランド貴族のサラ・アシュレイ夫人(ニコール・キッドマン)は夫の最後の所有地である、オーストラリアの「ファラウェイ・ダウンズ」という牧場に向かっていた。1年も夫はロンドンに帰ってこないのだ。
オーストラリア北部の町、ダーウィンに水上機で着いた彼女を待っていたのは、バーで殴り合いの喧嘩をしていたカウボーイだった。ドローヴァー(牛追い)の名前でしか知られていないそのカウボーイ(ヒュー・ジャックマン)とともに一路ファラウェイ・ダウンズに向かうサラ。
しかし、彼女をファラウェイ・ダウンズで待っていたのは、夫の亡骸と荒れ果てた牧場だった。そこの管理人ニール・フレッチャーと、このあたりを牛耳り、アシュレイ家と敵対する大牧場主キング・カーニーが結託して、牛を盗んでいったのだった。彼女に残された道は、残った1500頭の牛を遠く離れたダーウィンの港へ持って行き、軍との食料用牛肉の契約をすることだけだった。
アボリジニの呪術師キング・ジョージに見守られながら、混血少年ナラたちとの旅が始まる。ようやく到着したダーウィンで牛の売買契約が軍とまとまる。カーニーは牧場を買い取りたいというが、サラは拒否。街でアボリジニ保護のための資金を集めるダンス・パーティが開かれ、サラとドローヴァーは互いに惹かれあう。ナラとの3人の生活が始まるが、感情のすれ違いが起こり、ドローヴァーはサラのもとを去る。キング・ジョージと成人儀式で旅に出ていたナラが警察に捕えられ、サラはダーウィンに向かうが、第二次大戦が勃発。ナラのいるミッション・アイランドは日本軍の最初の攻撃目標で、ドローヴァーはサラとナラを救うために向かう。戦火の中で3人は再会。サラの夫を殺した真犯人の魔の手もキング・ジョージが阻止する。こうして3人は新たな関係へと踏み出していく。
登場人物
- レディ・サラ・アシュレイ
- 演 - ニコール・キッドマン、日本語吹替 - 岡寛恵
- イングランド貴族。オーストラリア北部の牧場「ファラウェイ・タウンズ」を亡き夫から相続した。
- ドローヴァー
- 演 - ヒュー・ジャックマン、日本語吹替 - 山路和弘
- 野性味あふれるオーストラリア人のカウボーイ。本名は劇中では不明。レディ・サラ・アシュレイから道案内として雇われた。アボリジニの女性と結婚していたことがあるため、白人社会からは異端視されている。
- ニール・フレッチャー
- 演 - デビッド・ウェナム、日本語吹替 - 牛山茂
- レディ・サラ・アシュレイの牧場の支配人。実はキング・カーニーの手先で卑劣な男。サラに対してなおも執拗に土地建物を押し買いしようとし、ナラを殺そうとするが、ナラの近親者に討たれて死ぬ。
- キング・カーニー
- 演 - ブライアン・ブラウン、日本語吹替 - 小川真司
- 北オーストラリア一帯の大半の土地を所有している大地主。戦争を利用して一儲けを企む。
- キプリング・フリン
- 演 - ジャック・トンプソン、日本語吹替 - 宝亀克寿
- アルコール中毒の老会計士。
- ナラ
- 演 - ブランドン・ウォルターズ、日本語吹替 - 木村亜希子
- 「ファラウェイ・タウンズ」の使用人の子で、白人とアボリジニとのハーフの少年。ダーウィンへの旅でサラと同行する。実の父親は不明だったが、後半である人物であることが明かされる。
- キング・ジョージ
- 演 - デイヴィッド・ガルピリル
- アボリジニの老人でナラの祖父。どこからともなく現れナラを見守る。「ガラパ」と呼ばれるアボリジニの呪術師。
- キャサリン・カーニー
- 演 - エッシー・デイヴィス
- キング・カーニーの娘。物語後半でフレッチャーと結婚。
- マガリ
- 演 - デヴィッド・ングームブージャラ、日本語吹替 - 石住昭彦
- ダットン大尉
- 演 - ベン・メンデルソーン、日本語吹替 - 大滝寛
- バーカー博士
- 演 - ブルース・スペンス、日本語吹替 - 仲野裕
- その他の日本語吹き替え:丸山壮史、田原アルノ、堀越真己、ふくまつ進紗、小林美奈、沢木郁也、谷昌樹、加納千秋、定岡小百合、森夏姫、髙橋耕次郎、小室正幸、北川勝博、櫛田泰道、深津智義、勝沼紀義、石川綾乃、設楽麻美、木村はるか
製作の背景
2005年5月、ラッセル・クロウとニコール・キッドマンが直接20世紀フォックスにバズ・ラーマン監督、映画脚本作家スチュアート・ビーティーによる映画の出演交渉に赴いた。だが、ラッセル・クロウは出演できず、ヒュー・ジャックマンが出演することになった。
製作に取り掛かったのは2006年9月だが、予算などの問題で2007年2月から始まった。ニコール・キッドマンは当時妊娠中であったが降板せず、撮影を無事終えた。
史実との差異
日本軍がオーストラリアに上陸し、子供を救いに来たオーストラリア人(アボリジニ)を取り囲み殺すシーンがあるが、これはフィクションである。日本軍は継続的にダーウィンを空爆し、その沖合70キロにある「伝道の島(Bathurst Island)」も攻撃したことがあるが、オーストラリア大陸には上陸していない。
評価
興行収入
北米では2642館で公開され、約1400万ドルで初登場5位を記録。
オーストラリアでは国内最大の643館で公開され、約40万オーストラリア・ドルで初登場1位を記録。2009年2月現在で約3679万オーストラリア・ドルの興行となり、オーストラリアでの2番目に高い興行収入となっている[2]。
賞歴
- 受賞
- サテライト賞:美術賞、撮影賞、視覚効果賞
- ノミネート
- アカデミー賞:衣装デザイン賞
参考文献
- ^ a b “Australia (2008)”. Box Office Mojo. Amazon.com. 2010年3月6日閲覧。
- ^ http://www.varietyjapan.com/news/movie/2k1u7d00000jtseg.html
外部リンク
オーストラリアの映画
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歴史
初期
オーストラリアの映画産業は好況と不況を繰り返してきている長い歴史がある。オーストラリア初の長編フィクション作品『The Story of the Kelly Gang』は1906年に製作されている。
世界初の映画スタジオと言われることもあるライムライト・デパートメント(The Limelight Department)は1891年から1910まで救世軍の下、メルボルンに存在した。ライムライト・デパートメントは福音派に関する映画だけでなく、個人的な、また政府との契約も受けていた。19年の間にライムライト・デパートメントは300本もの映画を製作し、当時世界で最も大きな規模のスタジオであった。
1910年代のブーム
オーストラリアにおける初めてのブームは1910年代におこった。1910年には4本の長編映画が公開されたが、その数は翌年1911年には51本に急増、1912年には30本、第一次世界大戦の始まった1914年には再び4本に減少した。数の増減はあったものの、当時オーストラリアは世界中で最も映画産業が盛んな国の1つであった。
この映画産業の衰退については様々な説がある。ある歴史家は観客数の減少、オーストラリア産の映画に関する関心の欠如、第一次世界大戦への参戦などが影響したと見ている。しかしながら、大きな理由の一つとして、1912年に原住民に関する映画が禁止されたことが考えられる。代わりとなる作品を探していたオーストラリアの劇場は、オーストラリアで映画を製作すると、アメリカから映画を輸入するより高くつくことに気がついた。この状況を改善するため、1914年に連邦政府は映画の輸入に対して課税をはじめた。しかしこの税は1918年に廃止された。1923年には、オーストラリアで上映される映画の94%がアメリカ映画になってしまった。
1970年代から1980年代
1970年代、オーストラリア政府は自国の映画制作のために動き出した。1972年にはThe South Australian Film Corporation が、1975年にはAustralian Film Commissionがそれぞれ設立された。その結果、多くの優れた監督たちや俳優たちが現れ、オーストラリア独特の作品を生み出していった。その中でもピーター・ウィアーの『ピクニックatハンギング・ロック 』(1975)や ケン・ハンナムの『Sunday Too Far Away』(1975) といった作品は国際的に高い評価を得た。1970年代と1980年代はオーストラリア映画にとって黄金期とも言える時期となった。その他の目立った作品にはジョージ・ミラーのSF『マッドマックス』(1979)、ピーター・フェイマンのコメディ『クロコダイル・ダンディー』(1986)などがある。
映画産業の現在
オーストラリアの映画産業は、他の英語圏の国と同じくアメリカを相手に厳しい競争を強いられている。才能ある映画監督や俳優たちの多くはハリウッドに招かれ、その後オーストラリアに戻ってくることは稀である。
しかしながら、多くのアメリカの製作会社が、コストの安いオーストラリアにスタジオを構えるようになっている。そういったスタジオ - フォックス・スタジオ・オーストラリア (Fox Studios Australia)やワーナー・ブラザース・ムービー・ワールド (Warner Bros. Movie World) - は『マトリックス』や『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』、『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』をオーストラリアで製作している。
オーストラリア人の活躍
オーストラリア映画界は多くの映画監督や俳優を輩出している。そういった人物にはヒューゴ・ウィーヴィング、ポール・ホーガン、サム・ニール、メル・ギブソン、ガイ・ピアース、ケイト・ブランシェット、トニ・コレット、ニコール・キッドマン、ナオミ・ワッツ、ジュディ・デイヴィス、ジェフリー・ラッシュ、ラッセル・クロウ、ヒュー・ジャックマン、ヒース・レジャー、エリック・バナ、ピーター・ウィアー、マリオ・アンドレアッシオ、バズ・ラーマン、フィリップ・ノイス、ジリアン・アームストロングなどがいる。
外部リンク
「オーストラリア (映画)」の例文・使い方・用例・文例
- オーストラリアへ行ったことがありますか
- 日本はオーストラリアと貿易している
- オーストラリアからの羊毛の輸入
- オーストラリアにはコアラやカモノハシなどの珍獣がいる
- ジョンはオーストラリアに戻っていると思われている
- アボリジニはオーストラリアの先住民族のひとつだ
- 英国は18世紀の終わりにオーストラリアに移民を入植させ始めた
- 我々はオーストラリア訪問を計画中だ
- その俳優はアメリカ人ではなくオーストラリア人だよね
- 彼らはオーストラリア沖で難破した
- 彼が私たちとオーストラリアに行けなくて私たちはとても残念だ
- オーストラリアでは英語を話す
- 私たちはオーストラリアまで航海した
- シドニーはオーストラリアにある美しい都市ですが,私の第二の故郷です
- わが国はオーストラリアからたくさんの羊毛を輸入している
- ディンゴはオーストラリアでは有害な動物だとみなされている。
- オーストラリアの叢林地の居住者たち
- 1901年、6つの植民地が連邦となってオーストラリアの国を形成した。
- 彼女はオーストラリアでホームステイした。
- ランタナはオーストラリアではしばしば問題とみなされている。
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