オリジナルシックス時代以降
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「ニューヨーク・レンジャース」の記事における「オリジナルシックス時代以降」の解説
その後20年余りにわたって、レンジャースはNHLのお荷物チームであり続けたが、1967年に新築されたマディソン・スクエア・ガーデンへの本拠地移転に象徴されるように1960年代後半にチームの若返りを図った。そして新人ゴーリーのエディ・ジャコミン (Eddie Giacomin) らの働きにより5年内でプレーオフ進出を果した。 1972年には、チーム最多ゴールを上げたセンターのジャン・ラットル(Jean Ratelle) をシーズン中の飲酒運転による怪我で欠いたものの、スタンレー・カップ決勝に進出した。その後もブラッド・パーク (Brad Park)、ヴィク・ハドフィールド (Vic Hadfield)、ロッド・ギルバート (Rod Gilbert) ら有力選手の活躍もあって、この後年もプレーオフ進出が続く。第1ラウンドで前年度覇者のモントリオール・カナディアンズ、第2ラウンドでシカゴ・ブラックホークスを下したが、決勝ではボストン・ブルーインズに敗退する。 1970年代中頃の数年が過ぎ、1976年にブルーインズからフィル・エスポジトを獲得する。またスウェーデン人アンダース・ヘドバーグ(Anders Hedberg)がWHA(ワールドホッケーアソシエーション)加盟チームのマーベリックからレンジャースに移籍する。こうして戦力強化したチームは1979年再びカップ決勝に出場を果すが、カナディアンズに敗北する。 1980年代、1990年代を通じてチームは毎年プレーオフ進出を果すなど順調であったが、ただ1期を除いて顕著な結果を残すには至らなかった。 その例外は、1985-1986 シーズンである。新人ゴーリージョン・バンビーズブルック(John Vanbiesbrouck) がゴールを守護するレンジャースはカンファレンス決勝に進出する。まず、地区優勝のフィラデルフィア・フライヤーズを第5試合で下し、パトリック地区決勝では6試合でワシントン・キャピタルズを破る。しかし、カンファレンス決勝ではレンジャースは、こちらも新人ゴーリー、パトリック・ロワを擁したカナディアンズに敗れ去った。 これほど多くのプレーオフでの敗退を目の当たりにしたレンジャースファンのなかには、「これは『1940年の呪い』のせいだ」などとまことしやかにいうものもいる。この呪いは、1940年のスタンレー・カップ優勝の後、レンジャースの首脳部が優勝カップの椀の中でマディソン・スクエア・ガーデンから借入証書を燃やした時から始まったものなどと巷間伝えられる。 事実、会長賞(President's Trophy、NHL最高成績チームに授与)を獲得した1991-1992シーズンにおいて、ピッツバーグ・ペンギンズ(この年カップ優勝)に2勝1敗とリードしながら、3連敗したときには、ファンのフラストレーションは頂点に達した。(当時の観戦者の記録によれば、ブルー・ラインからロン・フランシス (Ron Francis) の放ったスラップショットがマイク・リクター(Mike Richter) の脇をすり抜けたプレーが、シリーズの分岐点であったとされている。) 翌年にはキャプテンのマーク・メシエとヘッドコーチのロジャー・ニールソン(Roger Neilson) の確執が起こりニールソンは辞任に追い込まれ、チームは1-11でパトリック地区の最下位に沈んだ。シーズン後、ヘッドコーチにはマイク・キーナン (Mike Keenan) が就任したが、キーナンの決勝での成績が0勝3敗であることから多くの者はこの就任を危ぶんだ。
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