オペラの舞台監督
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卒業後は、内定していた東宝を蹴り、藤原歌劇団や二期会の舞台を取り仕切っていた京田進音楽事務所に就職。初めての舞台は1955年(昭和30年)7月 藤原歌劇団 ジャン・カルロ・メノッティ『領事』舞台監督補である。しかし、まもなく京田進音楽事務所は倒産し、佐々木は大学を卒業して1年もたたない若さでフリーの舞台監督となる。フリーになった第一作目の公演は藤原歌劇団『蝶々夫人』である。2年目の1956年(昭和31年)には第一次イタリア歌劇団公演で舞台監督助手を務めている。 イタリア歌劇団公演を経験したスタッフは、オペラ制作に適した劇場の実現と、歌手中心の舞台運営の見直しを目指し、同年12月に「スタッフ・クラブ」を結成する。メンバーは舞台美術の妹尾河童、演出の栗山昌良、照明の石井尚郎、指揮の岩城宏之、作曲の林光、作曲・指揮の外山雄三、舞台監督の北村三郎、舞台監督の佐々木忠次、衣裳の緒方規矩子、文芸の高橋保、写真の長谷川清一、能の観世栄夫、日本舞踊の花柳寛。しかし次第に佐々木と「スタッフ・クラブ」のメンバーにすきま風が吹くようになり、1963年(昭和38年)に「発展的解消」をすることになる。 その後佐々木は、1961年(昭和36年)の国立パリ・オペラ座歌劇団の舞台演出助手、二期会、藤原歌劇団等、1973年(昭和48年)まで(1973年は東敦子帰朝記念で特別に担当したもので、実質的には1961年(昭和36年) - 1966年(昭和41年))の6年間に58本ものオペラのプロダクションの舞台監督・制作を担当。また、1962年(昭和37年)の商業演劇『黒蜥蜴』の舞台監督まで引き受けている。さらには、いつのまにか京田進が事務局長となっていたチャイコフスキー記念東京バレエ学校の舞台監督を1963年(昭和38年)に引き受けている。目の回るような忙しさである。
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