エデッサ伯国を占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 04:33 UTC 版)
1144年秋から、ザンギーはエデッサ伯国への進撃を開始する。エデッサ市はエルサレム王国の宗主権下で政情は安定していたが、住民のほとんどがアルメニア人で、十字軍諸国の中でもっとも弱く、またもっとも西洋人の少ない国だった。エデッサ伯国は同じ十字軍国家であるアンティオキア公国やトリポリ伯国とは抗争で仲が悪く、強大な国である東ローマ帝国やエルサレム王国はヨハネス2世やフルクが亡くなったばかりで(偶然にも2人とも狩猟中の事故で死亡している)安定しておらず、頼れる国がどこにもなかったので、増大するザンギーの勢力に抵抗するためエデッサ伯ジョスラン2世は近隣のディヤルバクルのセルジューク系領主カラ・アスラーンと連合した。このカラ・アスラーンの軍勢だけがほとんど使える軍勢だった。 ザンギーは1144年の秋、ジョスラン2世が全軍とともにカラ・アスラーンと合流し、西の方ユーフラテス川のほとり、テル・バーシルまで略奪戦に出かけたと聞くやすぐさまエデッサ包囲戦(英語版)を開始し、街の北の「時の門」のそばに陣を張った。街は庶民ばかりで軍隊はおらず、司教たちが指揮を執ることになった。司教らはキリスト教徒のアルメニア人はザンギーに降伏しないだろうと期待していた。 エデッサは難攻不落の城塞であり市民は防衛に奮戦したが、誰も攻城戦の経験がなく城塞の守り方や守るべき要所を知らず、工兵が城壁下にトンネルを掘り始めてもなすすべがなかった。度重なる休戦協定はエデッサ側の拒否で失敗に終わり、ザンギーは街の北の城壁の土台を取り除き、材木で支えて油や硫黄を一杯につめ、12月24日、ついに火を放った。油は燃え上がり城壁は崩れ落ち、ザンギーの軍が侵入して城郭に逃げられなかった人々を虐殺した。城郭は司祭の過失から固く閉まっており、殺到した群衆がパニックに陥り司祭も含む5,000人以上が圧死した。ザンギーは殺戮の中止命令を出してキリスト教徒の代表と話し合い、12月26日に街はザンギーに明け渡された。 アルメニア人やアラブ人のキリスト教徒は解放されたが、西洋人に対する扱いは過酷だった。持っていた財宝は没収され、貴族や司祭たちは衣服をはがれて鎖につながれアレッポへと送られ、職人たちは囚人として各職種別に働かされ、残り100人ほどは処刑された。ジョスラン2世はこの間遠くテル・バーシルにとどまったままであった。 この事件は十字軍国家を震え上がらせ、エルサレム王フルクの未亡人メリザンドはヨーロッパに特使を送りその惨害と救援要請を訴えた。これが第2回十字軍を招くことになる。またムスリム世界ははじめての勝利らしい勝利に熱狂し、カリフはありとあらゆる美辞麗句に満ちた敬称を彼に与えた。後のムスリムの年代記作家らはこれを十字軍国家に対するジハードの始まりと述べている。
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