エスポ傘下へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 21:19 UTC 版)
「ラルース (F1チーム)」の記事における「エスポ傘下へ」の解説
1989年のシーズンオフに、鈴木亜久里の個人スポンサーであったエスポコミュニケーションズ(不動産業をはじめ事務機器製造販売やレンタルビデオ店「GEO」など多岐にわたる事業を展開していた日本企業)がチームの株式を取得し、同社社長の伊東和夫がチームオーナーとなり、「エスポ・ラルース」として参戦した。 1990年も前半戦は予備予選組からスタートしたが、新車ローラ・LC90のパフォーマンスが高く、エリック・ベルナールと鈴木の新コンビがコンスタントに入賞するようになる。イギリスGPでは2台揃って入賞し、後半戦は予備予選から脱出。予選本戦でもトップ10に入る速さを見せた。特に鈴木は地元の日本GPで、日本人として初の3位表彰台を獲得する健闘を見せた。しかし、バブル崩壊によるエスポの経営悪化から、ランボルギーニエンジンの使用料の支払いが遅れ、日本GPの裏舞台ではエンジン供給を止められかねないという状況にあった。鈴木は翌年ラルースが資金難で撤退すると思い、ベネトンのフラビオ・ブリアトーレから移籍のオファーを受けたが、スポンサーの継続によりチームが存続することが決まり、鈴木の移籍も白紙に戻る。 1991年のシーズン開幕前に、国際自動車連盟(FIA)より前年のコンストラクターズポイントの剥奪処分を受けた。ローラ製シャシーを使用していたにも関わらず、コンストラクター名を「ラルース」と誤った名称でエントリーしたことが理由とされた。また、ポイントを失ったことにより予備予選の対象とされるとも発表された(その後の裁定で、実際には予備予選の対象からは外された)。この処分によって前年のコンストラクターズランキング10位までのチームに与えられる移送手段(通称FOCA便)の使用権が剥奪されたが、ラルースの移動費用はFOCAにより補填された。この処分をめぐっては、前年のコンストラクターズランキングで11位に終わり、ラルースの処分によってFOCA便の使用権を得ることができるリジェによる訴えがあったと見られた。また、エスポがチームへの支援を大幅に縮小し、ジェラール・ラルースが再びオーナーとなった。 さらに、ランボルギーニ・エンジンも失い、前年までティレルが使用していた、ハートチューンのコスワースDFRエンジンを使用した。この年のマシンLC91は技術的トラブルが相次ぎ完走もままならず、前半戦でベルナール・鈴木とも1度ずつ入賞を果たすが、終盤戦には両ドライバーともに予選落ちを繰返した。
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