ウェズリー・クラークの参入
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「2004年アメリカ合衆国大統領民主党予備選挙」の記事における「ウェズリー・クラークの参入」の解説
2003年の夏には、退役大将であるウェズリー・クラークを民主党の2004年大統領選挙の候補者としようとする全国レベルでのキャンペーンがいくつかのグループにより行われた。8月13日のCNNの番組は、かかるクラーク待望グループのテレビコマーシャルを流した上で、クラークにインタビューを行った。クラークは、クラーク待望グループとのつながりを否定したが、自分の立場をよく考えているということと、出馬の有無について数週間以内に公表する旨を述べた。クラークは、このインタビューで、自分が民主党支持者であることを初めて認め、周囲の思惑はさらに掻き立てられた。 2003年9月18日、アーカンソー州リトルロックで、クラークは、2004年民主党の大統領候補予備選挙への出馬の意向を発表し、10人目で最後の候補者となった(他の候補者よりも数か月も遅れた。)。「私の名前はウェズ・クラーク。アーカンソー州リトルロック出身で、ここに、アメリカ合衆国大統領を目指すことを表明する。」「この国を後ろではなく前に進めていくために選挙運動を行う。」と述べた。 クラーク候補の選挙運動は、リーダーシップと愛国心に集中していた。当初の選挙広告は、クラーク候補の経歴を全面に押し出したものであった。クラーク候補は、選挙運動の始動が遅れたこともあり、詳細な政策の提案が比較的欠けていた。クラーク候補はすぐに、減税プランなどを含む幅広い政策文書を提示したが、政策に関する弱点は、選挙運動当初のいくつかの討論において明らかであった。それにも関わらず、多くの民主党支持者はクラーク候補を支援した。支持者はクラーク候補の印象的な軍歴にひかれ、その外交政策への信用性は、ブッシュ政権の9/11後政策に挑戦する上で価値のある財産であると考えた。アドバイザーや支持者は、その時にも党の指名争いで先行していたディーン候補よりも、クラーク候補が選ばれる可能性が高いと考えていた。ただ、2003年暮れのクラーク候補への爆発的熱狂にも関わらず、ディーン候補はその年後半の世論調査でも大きなリードを維持していた。 クラーク候補への批判は選挙戦に参入したと同時に始まっていた。反戦将軍として報道され、立候補後の最初の数日間は戸惑いを見せていた。クラーク候補は、イラク戦争に関する決議に対してどう投票したか、という質問への回答が揺らいでいると受け止められた。支持者は、クラーク候補が優柔不断に見えるのは、メディア対応の経験が乏しいせいで、むしろメディアが、報道に使いやすい端的な回答を強く望みすぎたせいと主張した。
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