ウィーン=アスパング鉄道
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「アスパンク線」の記事における「ウィーン=アスパング鉄道」の解説
オーストリア=ハンガリー帝国の産業化初期(Gründerzeit)に鉄道建設ブームが起きてウィーナー・ノイシュタット運河の周辺で多数のプロジェクトが計画された。一方ハプスブルク王家はバルカン半島およびサロニカ - ミトロヴォカ区間で建設される鉄道に関心を持っていた。それでウィーンからクロアチアまで鉄道が連結され、ウィーン - ザグレブ - サロニカ区間が直接に連結される可能性が開いた。 運河会社の株主たちはクロアチアとボスニア国境まで鉄道を建設するプロジェクト参加を申し込んで、1874年6月27日に、ウィーンからアスパング、フレーどベルク、ラードケルスベルクを経てクロアチア国境に至る鉄道に関する事前作業の承認通知を受けた。「ベルギー鉄道会社(Société Belge de chemins de fer)」はこのプロジェクトに資金を供給する予定であったが、1873年の金融・経済危機のため、大規模プロジェクトは水泡となって、建設計画はウィーン - アスパング区間に限定された。南部鉄道会社の告訴が憲法裁判所により却下された後で、アスパング線の建設は1877年11月28日に許可された。建設費用は865万グルデンで策定された。 起点駅はレンヴェク運河港と決定されて、港の廃止以後、アスパング駅はその土地で建設された。アスパング駅からの数キロメートルの区間はリージング小川の鉄道橋を含めて、廃止された運河上の区間と構成した。1880年6月から鉄道建設が始まって、南部鉄道の施設はフェリクスドルフ - ウィーナー・ノイシュタット区間でともに使用されることとなった。二年以上の工事の末に、1881年8月7日にウィーン - ピッテン区間が、同年10月28日ピッテン - アスパング区間がそれぞれ開業された。路線距離は南部鉄道の共有区間を除いて75.9 kmであった。アスパング線とウィーン北部鉄道駅 - マツラインスドルフ区間の路線を結ぶために連結線は1881年10月21日開通された。1914年まで一部の列車は中央税関駅から出発して、その列車の掲示板に「アスパング線」というレッテルがつけられていた。 1910年12月アスパング - フリードベルク区間の穴はヴェクセル鉄道の開通で埋められて、この路線の価値は上がった。それでこの路線はハンガリー西部鉄道の地方鉄道であった温泉線とも連結されている。第一次世界大戦の終戦以後、アスパング線はウィーン近郊の遠足用で広く利用され、旅客交通は1930年に戦争以前の水準に至った。
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