南部鉄道会社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 04:59 UTC 版)
1858年既に、南部鉄道会社(Südbahn-Gesellschaft)が最初の計画を立案して、まもなくウィーンとチロルを南部鉄道の本線の経由で連絡する鉄道建設許可を取得した。 ヒューゲル・ウント・ザーガー社(Hügel & Sager)は、プスター谷鉄道の建設契約を獲得して、1869年の晩秋に工事を開始した。建設工事が予想よりもはるかに速く進められ、総延長209 kmのフィラッハ - フランツェンスフェステ区間が1871年11月20日に開業された。フィラッハからリエンツまでのドラウ谷線は平坦な鉄道として建設されたが、フォルテッツァに続く山岳鉄道となり、この路線の頂点はドッビアーコの鞍部で、高度は海抜1215 mほどである。 プステリア渓谷鉄道の当初の役割は、東チロルをチロルの中心地インスブルックに連結することであった。しかし、第一次世界大戦の終戦後、ハプスブルク帝国の崩壊と南チロルのイタリアへの割譲りにより、この路線の重要性は急激に低下した。
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