南部銃製造所の設立
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1922年(大正11年)に東京砲兵工廠提理(事実上の最高責任者)となったのち、陸軍中将に昇進。翌1923年(大正12年)には造兵廠火工廠長、陸軍科学研究所所長も兼任する。その後陸軍を退役し、東京砲兵工廠製造所からも退いた南部麒次郎は大倉財閥から資本金を集め、1925年(大正14年)に大倉財閥系の企業として「南部銃製造所」を設立した。ここで彼は数学が得意なことから自らも工場経営に能力を発揮し、独自に開発した武器の海外輸出を行うなどしている。この製造所は1936年(昭和11年)には別の銃器製造所である「昭和製作所」及び同じ大倉財閥系の「大成工業」の2社との合併を行い、社名も「中央工業」となった。 会社の設立後、陸軍からは十四年式拳銃よりも小型な拳銃を要望する声が多くなり、後に十四年式拳銃と同じ実包を使用した九四式拳銃を開発し陸軍に採用されている。中央工業はその後も拳銃に限らず、機関銃や自動小銃などの研究開発を行い、三八式小銃や九九式軽機関銃等の製造にも携わっている。
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