イヴァン・スサーニンと「官製国民性」
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「皇帝に捧げた命」の記事における「イヴァン・スサーニンと「官製国民性」」の解説
イヴァン・スサーニンは17世紀初頭のロシア・ポーランド戦争において、ロシアに侵攻してきたポーランド軍に対して抵抗したとされる伝説的英雄である。全国会議で皇帝に選出された当時16歳のミハイル・ロマノフは、コストロマのイパーチー修道院(英語版)に潜伏しており、このとき、ポーランド軍の捜索隊から若き皇帝の居所を隠し通し、拷問の末に命を落としたのが地元の農民イヴァン・スサーニンだったとされる。この顛末は1619年、イヴァンの娘婿であるソビーニンに与えられた特別免除状に記されており、以降のロマノフ朝の皇帝たちはスサーニン家の子孫に対して代々特別免除状を更新してきた。イヴァン・スサーニンの名は1792年にロシアの歴史文献に書き加えられ、その果敢な行為は1812年ロシア戦役でのナポレオン軍に対する農民のパルチザン活動にもなぞらえられた。1817年にはセルゲイ・グリンカ(作曲者の従兄弟)によって『青少年のためのロシア史』に掲載されるなど、教科書にも登場する人物としてロシア人の愛国心に組み込まれた。 ロシアのロマン主義文学においても、「イヴァン・スサーニン」はルイレーエフによる同名バラードをはじめとして舞台作品の定番的人物であり、グリンカのオペラ初演を指揮したカッテリーノ・カヴォスは、1815年に同名のジングシュピール作品を作曲していた。 グリンカがジュコーフスキーと親交を持ったころには、ニコライ1世の統治下で帝政体制の基本理念である「専制・正教・国民性」の一端を担う「官製国民性」が唱導され、ロシアの国民的かつ愛国的芸術観は、「官製国民性」の教養の一部として新たな意味づけが与えられていた。詩人であるとともに、ロシア宮廷に仕えて皇太子の養育官でもあったジュコーフスキーは、そのもっとも熱心な旗振り役のひとりだった。一介の農夫がロマノフ朝樹立の大義に命を捧げるというテーマは、そうした理念を裏打ちする格好の材料であり、ジュコーフスキーはグリンカに提案する前にも歴史小説家ミハイル・ザゴースキンに「イヴァン・スサーニン」の題材を勧めていた。 したがって、『皇帝に捧げた命』はロマノフ朝の成立史を扱っているものの、史実性や事件性よりも物語のイデオロギー的な意義を公然と語ることにその主たる関心が置かれ、「国家の繁栄なくして個人の幸福はない」あるいは「王朝への神権への熱烈な服従」というメッセージが強調されている。
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