アルヌルフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 18:49 UTC 版)
変人だが優秀な写字生。自身は芸術家の誇りを持っている。俗世名「アルヌルフ・ノイマン」。森奉行を務めるノイマン家の嫡子として生を受けた次男坊だったが、14歳の時に思う存分学問書に打ち込みたくて修道士になった。ファルコがマティアスと共に修道院に戻ってしばらくして父バルタザルが卒中で亡くなり、長男亡き後の後継者として相続をとノイマン家を仕切る家令が言い出したことで還俗問題が勃発した。俗世間に無理矢理に連れ戻されるかもと思うと何度も失神し、涙を流したことで“変人の目にも涙”と囁かれた。幸い、腹違いの兄フランツ・ヘルムがいたことで還俗を免れた。
※この「アルヌルフ」の解説は、「修道士ファルコ」の解説の一部です。
「アルヌルフ」を含む「修道士ファルコ」の記事については、「修道士ファルコ」の概要を参照ください。
アルヌルフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 07:30 UTC 版)
東フランクではカールマンの庶子であるケルンテンのアルヌルフが王に選出された。アルヌルフは肥満王とは対照的に交渉を行わずひたすら闘い続けた戦士であり、積極的な対外遠征を行った。まず王位を巡って混乱が続く西フランク王国へと介入して自らの宗主権を認めさせ、ロタリンギアを手に入れて庶長子のツヴェンティボルトをその王とした。ロタリンギア南端に成立していたブルグント王国はロタリンギア統一を試みたがよせつけなかった。さらにアルヌルフは肥満王の養子ルイ3世がプロヴァンス王に即位するための支援もした。891年9月のルーヴァンの戦いではノルマン人を撃退した。治世を通して大モラヴィア王国とも戦い続け、ボヘミアを割譲させた。894年には教皇の要請でイタリアにも侵攻して西ローマ皇帝グイード・ランベルトの親子を破りイタリア王に戴冠した。896年にはグイード亡き後の西ローマ皇帝としても戴冠した。しかし同年にアルヌルフは病気となり、対立皇帝ランベルトへの攻撃は中止された。 イタリアは失われ皇帝ランベルトは復権した。東からはモラヴィアとマジャール人が継続的に襲撃を続け、ロタリンギアでも内乱が起きていた。しかし病床のアルヌルフは対処できなかった。898年にランベルトが病死したことでアルヌルフは単独の皇帝となったがもはや意味はなかった。アルヌルフは899年に死去して、嫡子のルートヴィヒ4世(幼童王)が継いで、先年に逝去した異母兄のツヴェンティボルトの王位も継いで兼務したが、彼は幼少のために摂政団が組織された。マジャール人の攻撃は激しさを増すばかりで摂政二名が戦死し、現在のスイス地域にまで侵入を許して西フランクの援軍によりやっと追い返せるという事態にまでなった。911年、ルートヴィヒ4世の死により東フランク王国におけるカロリング朝は断絶した。カロリング朝末期には王権の弱体化が進み、ルートヴィヒ4世の死と前後してフランケン、ザクセン、バイエルン、シュバーベン、ロタリンギア(ロートリンゲン)では在地貴族から各部族の首長である公が選ばれた。これはカール大帝時代に廃止されたのが復活したものであり、しかもかつてのように王が任命する官職ではなく世襲的地方統治者であった。
※この「アルヌルフ」の解説は、「東フランク王国」の解説の一部です。
「アルヌルフ」を含む「東フランク王国」の記事については、「東フランク王国」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書からアルヌルフを検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- アルヌルフのページへのリンク