アリストテレスの認識
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 06:22 UTC 版)
「詩学 (アリストテレス)」の記事における「アリストテレスの認識」の解説
アリストテレスの師であるプラトンは、『ソクラテスの弁明』『イオン』『国家』第10巻などで述べているように、詩(創作)の魅力は認めるものの、それは「弁論術・論争術・ソフィストの術(詭弁術)」や「絵画の術」と同じように、対象の真実についての知識や技術を持ち合わせないままそれを(感覚・感情・快楽を刺激するように誇張的に)「模倣」(真似)して、人々の魂を誘導し、対象の真実から遠ざけていってしまうものであり、また更にそれを扱う詩人(作家)の中にも、弁論家・ソフィストと同じようにそのことに無自覚で、それらの術を以て知りもしないことを知っていると思い込んでいる傲慢な者が少なからずいるとして、批判的に扱っている。 それに対してアリストテレスは、『弁論術』の場合と同じく、プラトンの考え方を引き継ぎつつも、それを肯定的に捉え直そうと努めている。すなわち「模倣」(再現)を行い、「模倣」(再現)によって学び(真似び)、また「模倣」(再現)されたものを見て悦ぶというのは、人間の本性に根ざした自然な傾向であるとして、詩作をそうした人間性質の反映の一種(「人間の営為」の「模倣」(再現))として捉え、その性質の完成という目的(テロス)に向けた発展過程として、詩作的営みの全体像を説明しようとしている(第4章)。したがって、本書『詩学』において、アリストテレスの関心と記述は専ら、詩作の最も発展成熟した形態としての「悲劇」とその構造分析に費やされている。 (ただし、『詩学』は本来は2巻構成で、「喜劇」について論じられていたと推測される第2巻が今日まで伝わらず散逸してしまっているため、アリストテレスの「喜劇」に対する評価や、「悲劇」と「喜劇」に対する評価の差は、正確には分からない。そこでウンベルト・エーコの『薔薇の名前』のように、「アリストテレスはひょっとしたら、「悲劇」よりも「喜劇」をより高く評価していたのかもしれない」という仮説に基づく文学作品も存在している。)
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