アリストテレス主義の時期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 14:31 UTC 版)
「フランツ・ブレンターノ」の記事における「アリストテレス主義の時期」の解説
ブレンターノは、若い頃、数学と哲学との研究のどちらに向かうべきか悩んだが結局哲学を志すことにした。そこで、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルの思想界と接触してみたが、それら思想はブレンターノにとっては非科学的に映ったため受け入れることができなかった。すなわち、形而上学的問題に関して、思弁的体系的思想家たちが恣意的・構成的に振る舞うのに対して、彼はあくまで自然科学的問題に対するのと同じ方法を要求したのである。このように彼はカント以後のドイツ観念論のような思弁的観念的思想家に対する抗議を持って出発したが、その彼が向かったのがアリストテレスの体系であり、彼が終生師として仰いだものはアリストテレスのほかになかった。 ブレンターノは、1866年、ヴュルツブルグ大学講師となったが、就任にあたって25のテーゼを朗読して、それに対する弁明を行った。ここで注目すべきは第4のテーゼとして「哲学の真の方法は自然科学の方法にほかならない」と語ったことであり、彼が哲学に対して自然科学的方法を要求したことが現れている。彼にとって、哲学はその根源的な科学性を保持すべきものであったのであり、これは彼の思想に一貫した基礎となっている。
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