アメリカ・デビュー以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/14 00:47 UTC 版)
「アンディ・ギブ」の記事における「アメリカ・デビュー以前」の解説
本名アンドリュー・ロイ・ギブ(英: Andrew Roy Gibb)は、父ヒュー・ギブ(1916~92)と母バーブラ(1920~2016)の下で生まれ、その6ヶ月後に家族とともにオーストラリアのブリスベン北にあるクリブ島に引っ越した。彼は末っ子で、1人の姉(レズリー 1945年生)と3人の兄(バリー 1946年生、ロビン 1949年生、モーリス 1949年生)がいた。上のきょうだい達とは歳が離れているため家族達から溺愛されて育った。、アンディが8歳の時である1967年1月、家族とともにイングランドへ帰国した頃、ビージーズは世界的な名声を得た。兄達の成功は少年期のアンディの生活をも変え、学校へロールスロイスで学校に送迎されるような生活に変わった。そのことが他の生徒の妬みを買い、学校でのアンディの生活を困難にし、13歳で学校に行くのを止めることとなった。アンディは10代の頃、最初はスペインのイビサ島で、その後マン島(マン島は彼の兄の出身地で、両親が住んでいた場所)で、旅行者が集まるクラブで音楽活動を始めた。地元のミュージシャンのジョン・オルダーソン(ギター)とジョン・ストリンガー(ドラム)とメロディ・フェア(Melody Fayre)(ビージーズの曲名を元に名づけられた)というバンドを結成した。このグループのマネジメントは彼の母・バーブラが行い、マン島のホテル内で定期的にライヴをしていた。彼の最初のレコーディングは、兄モーリスが作曲・演奏・プロデュースした「My Father Was A Reb」という曲だったが、発売されなかった。 ビージーズの成功の要因の1つはオーストラリア時代のトレーニングだったと考えていた兄バリーに強く勧められたため、アンディは1974年オーストラリアへ帰国した。オーストラリアでは彼は一人ではなく、姉レスリーが残って夫と住んでいた。オルダーソンとストリンガーも、アンディを追ってオーストラリアへ向かった。コル・ジョーイがプロデュースの元、アンディとオルダーソン、ストリンガーは何曲かレコーディングをした。グループ活動は散発的だったが、アンディはトレーニング目的だったこともあって兄たちの経済的な援助を受けていた。しかし、オルダーソンとストリンガーはそうもいかないため、イギリスへ帰国した。アンディのデビュー・シングルは「ワーズ・アンド・ミュージック」(Words and Music)というバラードで、コル・ジョーイのプロデュースだった。このシングル(カップリングは「Westfield Mansions」)は、1976年シドニー・ミュージック・チャートにてトップ20にランクインした。その後、トレバー・ノートン(ドラム)らのバンド・ゼンタ(Zenta)にアンディは加入し、スウィートやベイ・シティ・ローラーズのオーストラリア・ツアーにおけるサポート・アクトをつとめた。ダリル・サマーズがホストをつとめるテレビ番組で演奏した「Can't Stop Dancing」(レイ・スティーブンスのカバー。キャプテン&テニールの1977年のカバーがアメリカでヒット)をシングルでリリースする予定があったが、リリースされなかった。1976年初め、ビージーズのマネージャーであるロバート・スティグウッドが、アンディを自分のレーベル(RSOレコード)と契約した。アンディはマイアミビーチへ移り、兄バリーや共同プロデューサーのアルビー・ガルテン、カール・リチャードソンと音楽活動を開始した。 オーストラリアを発つ前に、アンディはガールフレンドと結婚した。夫婦の間には1978年に1人の娘が誕生したが、娘が誕生前に夫婦はすでにアンディのコカイン中毒が原因で別居していて、その後離婚した。
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