アクイレイア大聖堂
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「アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ」の記事における「アクイレイア大聖堂」の解説
中世、アクイレイアはこの地方の中心都市としての地位を保ち続けた。553年にアクイレイア大司教は総大司教に昇格している。アクイレイア総大司教は、分裂や移転などの曲折を経ながらも高い宗教的権威を得、現在のイタリア北東部に広大なアクイレイア大司教領 (Patriarchate of Aquileia (state)) を所有していた。世俗の領土は1445年にヴェネツィア共和国によって没収されたが、アクイレイア総大司教は1751年に正式に廃止されるまで続いた。 総大司教の座所として建設されたのが総大司教座聖堂である。現在のアクイレイア大聖堂は1031年、総大司教ポッポ(ポッポーネ) (Poppo of Treffen) によって、もとの聖堂跡地に再建されたものである。その後、1379年ごろに総大司教マルカド (Marquard of Randeck) によってゴシック様式に改修された。 大聖堂は、陸屋根を持つバシリカ式聖堂である。ロマネスク様式とゴシック様式のファサードは、柱廊玄関で、「異教徒の聖堂」(Church of the Pagans)や5世紀の洗礼堂の遺跡と繋がっている。内部は1つの身廊と2つの側廊からなり、4世紀以来のモザイク模様の敷石が目を惹く。天井は1526年の木造である。後陣の区画にある聖ペトロ礼拝堂(4世紀)、後陣それ自体(11世紀)、クリプト(12世紀)などで、様々な時代のフレスコ画も見る事ができる。クリプトは「フレスコ画のクリプト」とも呼ばれ、アクイレイアにおけるキリスト教共同体の起源や、アクイレイア初代主教ヘルマゴラス(St. Hermagoras)の物語が、ぐるっと取り巻くように描かれている。 外部には、9世紀の鐘楼と後陣の後ろ側に、第一次世界大戦で亡くなった10人の無名戦士の墓がたっている。
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