アクイレイア大聖堂とは? わかりやすく解説

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アクイレイア大聖堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 08:43 UTC 版)

アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ」の記事における「アクイレイア大聖堂」の解説

中世アクイレイアはこの地方中心都市としての地位保ち続けた553年アクイレイア大司教総大司教昇格している。アクイレイア総大司教は、分裂移転などの曲折を経ながらも高い宗教的権威を得、現在のイタリア北東部広大なアクイレイア大司教領 (Patriarchate of Aquileia (state)) を所有していた。世俗領土1445年ヴェネツィア共和国によって没収されたが、アクイレイア総大司教1751年正式に廃止されるまで続いた総大司教座所として建設されたのが総大司教座聖堂である。現在のアクイレイア大聖堂は1031年総大司教ポッポ(ポッポーネ) (Poppo of Treffen) によって、もとの聖堂跡地再建されたものであるその後1379年ごろに総大司教マルカド (Marquard of Randeck) によってゴシック様式改修された。 大聖堂は、陸屋根を持つバシリカ聖堂である。ロマネスク様式ゴシック様式ファサードは、柱廊玄関で、「異教徒聖堂」(Church of the Pagans)や5世紀洗礼堂遺跡繋がっている。内部1つ身廊2つ側廊からなり4世紀以来モザイク模様敷石が目を惹く天井1526年木造である。後陣区画にある聖ペトロ礼拝堂4世紀)、後陣それ自体11世紀)、クリプト12世紀)などで、様々な時代フレスコ画も見る事ができる。クリプトは「フレスコ画クリプト」とも呼ばれアクイレイアにおけるキリスト教共同体起源や、アクイレイア初代主教ヘルマゴラス(St. Hermagoras)の物語が、ぐるっと取り巻くように描かれている。 外部には、9世紀鐘楼後陣後ろ側に、第一次世界大戦亡くなった10人の無名戦士の墓がたっている。

※この「アクイレイア大聖堂」の解説は、「アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ」の解説の一部です。
「アクイレイア大聖堂」を含む「アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ」の記事については、「アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ」の概要を参照ください。

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