アイネスフウジンと中野
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 08:47 UTC 版)
騎手時代の代表馬として、東京優駿(日本ダービー)と朝日杯3歳ステークスのGIを2勝したアイネスフウジンが挙げられる。 1989年夏、中野は当時36歳。美浦の中堅騎手だったが、体重管理の失敗とその以前に起こした交通事故で厩舎サイドはおろか競馬サークル全体からの信用を落としてしまっており、騎乗する馬がほとんどいない状態だった。 しかしその状況のなかで、夏競馬の最中で人も馬も閑散としている美浦トレーニングセンターで中野に声を掛けたのが加藤修甫調教師だった。加藤は「中野、おまえダービー取ってみたいだろ。ウチのに乗ってみないか?」と声を掛けた。それがアイネスフウジン騎乗の契機となった(なお騎乗は調教師の一存だけでは決められないが、この騎乗に関しては馬主も了承していた)。 中野と加藤の期待に応え、3戦目で未勝利戦を勝ち上がると(のちのインタビューによれば将来性のある馬だから無理をさせなかったとのこと)、次走の朝日杯3歳ステークスでは、マルゼンスキーが記録した1分34秒4のレコードタイで勝利した。 このため、翌1990年のクラシックレースでも期待されたが、皐月賞では他馬(ホワイトストーン)のスタート直後の斜行による出遅れが響きハクタイセイの2着に敗れる。この敗戦で中野自身は乗り替わりを覚悟したといい、事実、競馬マスコミからは「中野を降ろせ」の声もあった。しかし加藤は「おまえのせいで負けたんじゃない。最後まで任せたからな。」とかばい、引き続き騎乗することになった。 東京優駿(日本ダービー)では人気を落とすが、それに反発するように中野はレース前に関係者に対して、「(馬券が買えるならば)借金してでもアイネスフウジンを1番人気にしてやりたい」と語っている。(実際の1番人気はメジロライアン、フウジンは3番人気)。 レースのゲートが開くと、スタートこそ遅れたものの、中野はアイネスフウジンをすぐに加速させ先頭を取る。速いペースを保ちつつ、馬場の荒れた内を4コーナーまで避けて逃げ、2分25秒3のレースレコードで逃げ切った。当時のレースレコードは1988年、サクラチヨノオーの2分26秒3で、ちょうど1秒の記録更新だった。この記録は14年後キングカメハメハによって破られるも、東京競馬場の馬場が改修されたあとのことである。 ゴール直後、中野は馬上でこれまでの苦労した騎手人生を噛みしめるように「ざまあみろ!このオレだってジョッキーだ!」とつぶやいたという。この快挙に東京競馬場に詰めかけた約20万の観客から「ナカノ!ナカノ!」と中野コールが沸き起こった。競馬場でGIレースの勝利騎手、勝利馬にコールが起きるのは、このとき以来とされている。 しかしアイネスフウジンが脚部不安で引退するとふたたび騎乗馬に恵まれず、また、減量がいよいよ厳しくなっていたこともあって1992年には年間0勝に終わってしまい、「年間勝利ゼロのダービージョッキー」としてテレビのドキュメントに取り上げられたこともあった。
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