アイザック・デシェイの恩赦
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「ジョセフ・デシェイ」の記事における「アイザック・デシェイの恩赦」の解説
デシェイは息子に恩赦を出したことでその評判をさらに悪化させた。1824年11月2日、アイザック・B・デシェイがケンタッキー州を訪れていたミシシッピ州人フランシス・ベイカーを残忍に殺害した。11月24日、議会におけるデシェイの支持者ジョン・ローワン上院議員が、フレミング郡巡回裁判所に対し、1825年1月17日に特別会期を招集するよう命令を出す法案を提出した。これはアイザック・デシェイの公判のためであり、同時に被告が裁判地をハリソン郡に変更する要請を選択できるようにするためのものだった。ハリソン郡は殺人現場から遠く離れているが、デシェイの出身郡であり、そこの役人達には大きな影響力を持っていた。11月26日に開催されたこの法案を検討するための議員委員会にデシェイ知事が出席し、議会全体に都合良く報告するよう求めた。委員会がその通りに行い、法案は12月4日に承認された。 12月に行われた公判でアイザック・デシェイは裁判地の変更を要請した。この事件はハリソン郡に移管され、1月初旬に開廷されることになった。ジョン・トリンブルがこの事件を審問することになったが、デシェイ知事は1824年遅くに旧裁判所を「廃止」したことに伴い、トリンブルを新控訴裁判所の判事に指名していた。トリンブルは自らレキシントンのジョージー・シャノン判事に訴えてこの事件を審問するよう要請した。デシェイ知事は息子のために手強い弁護団を集めた。新しく州務長官に指名したウィリアム・T・バリー、アメリカ合衆国上院議員に選出されたばかりのジョン・ローワン、元下院議員のウィリアム・ブラウンとT・P・トールだった。ウィリアム・K・ウォールと後のアメリカ合衆国下院議員ジョン・チェンバーズ、ハリソン郡とフレミング郡それぞれの州検察官が検事のマーティン・P・マーシャルと共同し、事件の告発にあたった。デシェイ知事は公判の度に出席し、弁護人と同席した。 父のデシェイが都合の良い裁判地、判事、弁護団を手配して最善を尽くしたにも拘わらず、1825年1月31日、陪審員はアイザック・デシェイを殺人罪で有罪とし、絞首刑を宣告した。ローワンは即座に陪審員の干渉を根拠に新たな裁判を要求し、シャノンは2月10日にこの要請を認めた。陪審員の選任が問題となり、ハリソン郡巡回裁判所開廷期の少なくとも4期を消費することになった。1825年9月、陪審名簿が最終決定した。判事はハリー・O・ブラウンであり、空席を埋めるためにデシェイ知事が一時的指名した者だった。息子のデシェイは再度有罪となり、1826年7月14日に絞首刑に処すると宣告された。ブラウン判事は、デシェイに対する起訴状にあるように、殺人がフレミングで起こったことを検察は証明していなかったので、判決を破棄した。検察は裁判地の変更が既に行われていたのでこれは全く重大でないと論じたが、判事の裁定が通り、デシェイ知事の評判は新たな打撃を受けることになった。 1826年7月、アイザック・デシェイは3回目の裁判を待っている間に保釈金を払って保釈された状態にあり、明らかに興奮した状態にあったが、自分の喉を切って自殺を図った。医者が切断された気管を銀の管で再接合して一命を取り留めた。アイザックは快復し、1827年6月に3度目の裁判に臨んだ。6月の開廷期に、デシェイの弁護団は多くの専断的忌避を行使し、再度陪審員の名簿作りをできないようにした。判事は次の開廷期までアイザックを保釈無しに拘束すると命令したが、この手続きに同席していたデシェイ知事が立ち上がり、息子に恩赦を与えると共に、判事を長々しい弁舌で非難した。幾つかの証言に拠れば知事は恩赦を認めたことで即座に辞職したが、公式の記録にはそのような行動が記録されていない。 アイザック・デシェイは釈放された後、偽名でテキサス州に旅し、そこで強盗を行い、別の男を殺した。家族的類似および以前に彼の命を救った銀の管でアイザックと同定された。アイザックは逮捕された後に、2つの殺人を自白した。1828年8月、公判を前にした日にアイザックは熱病で死んだ。
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