その他の弟子孫弟子等と居士の弟子
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「山本玄峰」の記事における「その他の弟子孫弟子等と居士の弟子」の解説
鈴木宗忠(生没 1921-1990)龍沢僧堂師家。玄峰の法嗣である中川宋淵の法嗣。1954年(昭和29年)龍沢僧堂に掛搭して中川宋淵に参じ、一方では閑栖の山本玄峰に随侍した。その師弟関係から晩年の山本玄峰に随時して、一度四国遍路をしている。 平井玄恭(生没 1919-1993)全生庵住職。平井自身が1925年(大正14年)6歳の時に山本玄峰の最初の寺である雪蹊寺の小僧となっている。そういった縁もあってか、40年以上に及んで山本玄峰に仕えた。玄峰は東京へ行くと、全生庵でよく提唱や講義を行った。そして玄峰が遷化する数日前迄は全生庵に滞在していた。その影響もあり、ここ全生庵には戦前から多くの政治家が坐禅などに訪れる様になった。その後も、中曽根康弘や安倍晋三が坐禅に時折来ていたのは有名である。 与五沢宗舜(生没 1895-1945)前龍沢寺住職であった翠巌宗蜜の弟子、与五沢宗舜は宗蜜が寺を去って、山本玄峰が引き継いだ後も寺に残った。そして師の玄峰を支え一緒に荒廃していた龍沢寺を復興した。山本玄峰の後継者と言われていた。しかし敗戦の年自らの命を絶った。理由は病気説と戦争責任説があるが詳細は不明。宗舜の死後5年して、中川宋淵が後継者として住職になった。 以下、居士の弟子 鈴木貫太郎(生没 1868-1948)第42代内閣総理大臣、連合艦隊司令長官 吉田茂(生没 1878-1967)第45代・第48-51代内閣総理大臣 池田勇人(生没 1899-1965)第58-60代内閣総理大臣 四元義隆(生没 1908-2004)実業家、三幸建設工業社長等 田中清玄(生没 1906-1993)実業家、光祥建設株式会社社長等 井上日召(生没 1886-1967)日本の宗教家。政治運動家。1932年(昭和7年)に起きた血盟団事件で、山本玄峰は井上日召のため裁判で特別弁護を行った。 西田天香(生没 1872-1968)一燈園の創始者、宗教家、社会事業家 岩波茂雄(生没 1881-1946)岩波書店創業者 安生慶三郎(生没 1866~1935)日本初の琺瑯製造会社、清州商店創業者。山本玄峰へ金銭的な支援をした。自身の墓も三島の龍沢寺にある。 玉置弁吉(生没 ?)玉置病院院長。玄峰のホームドクター。健康面で玄峰を支えた。 近藤政吉(生没 ?)株式会社近藤商店創業者。山本玄峰の熱心な信者であったので、1936年(昭和11年)に駿河湾を望む沼津市多比に玄峰老師の隠居所「去来庵」を建立寄進した。子息の近藤二夫が14回目になる山本玄峰の四国遍路に随侍した。
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