その他の例外指定され反逆罪に問われた人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 23:41 UTC 版)
「レジサイド (チャールズ1世)」の記事における「その他の例外指定され反逆罪に問われた人物」の解説
名前王政復古時の生死王政復古時の行動、量刑と備考出典ランバート ジョン・ランバート生存 チャールズ1世裁判時にはロンドンに不在。王政復古時に大逆罪に問われて終身刑に処された。当初はガーンジー島、次いでドレイク島(英語版)に収監され、1683/4年に死去。 ベイン ヘンリー・ベイン生存 議会での議論の末、免責・大赦法の免罪の例外となった。大逆罪に問われ、1662年6月にタワー・ヒルで斬首された。 スコットランドの王政復古(英語版)に伴う免責・大赦法(Act of indemnity and oblivion、1662年9月9日)でも、イングランドと同様に多くの者の罪が許される一方で、一部の旧体制の人物は反逆罪に問われることになった。 スコットランド免責・大赦法における例外対象者の処断名前処断備考アーチボルド・キャンベル (第8代アーガイル伯) 斬首刑(1661年5月27日執行) エディンバラにおける裁判で、チャールズ1世の処刑への加担と体制転覆直前の逃亡の罪については無罪とされたが、かつて彼がジョージ・マンクに送っていた書簡が届けられるにいたり、彼がクロムウェルの政府に協力していた(特に1652年のグレンケルンの乱の鎮圧への加担)ことが明らかとなり、直ちに死刑判決を受けた。 ジェームズ・ガスリー(英語版) 絞首刑(1661年6月1日執行) 1661年2月20日、ミドルトン伯が議長を務める議会において大逆犯だという非難を浴びた。指摘された6つの罪状の中でも、Western Remonstranceの作成と、国王の宗教的権威の否定という点は法の観点からしても致命的だった。ガスリーの裁判は4月11日まで続き、5月28日になって議会が反逆罪による絞首刑という判決を下した。 ウィリアム・ゴーヴァン(英語版)大佐 絞首刑(1661年6月1日、ガスリーに続いて執行) ウォリストン卿アーチボルド・ジョンストン(英語版) 絞首刑(1663年7月22日) スコットランド王政復古時にホラント、次いでハンブルクへ亡命。欠席裁判が行われ、1661年5月15日に死刑と爵位・財産没収が宣告された。その後フランスへ身を移したが、1663年にルーアンで発見され、フランス王ルイ14世の承諾の元でイングランドへ送還、ロンドン塔に収監された。6月にエディンバラのトールブース(英語版)に移送され、1663年7月22日に処刑された。 ジョン・スウィントン(英語版) 投獄 財産没収の上エディンバラ城に収監されたが、数年後に釈放された。 ケロー(英語版)のジョン・ヒューム 領地没収 1651年のウスターの戦いでイングランド議会軍に加わりチャールズ(2世)の王党派軍と戦った功績で領地を与えられていたが、1661年にこれを没収された。1688年名誉革命の後、この領地はジョンの息子ジョージに返還された。
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