久米通賢(くめみちたか 1780-1841)
久米通賢、通称栄左衛門は、讃岐郡引田郷馬宿村(現香川県引田町)に船舵作り職人の子として生まれた。
子供のころには天文地理に興味を持ち、粘土細工などが上手であったとか、大阪見物中に時計の分解修理をして困った人を助けたというような、手先の器用なところを発揮した逸話が残っている。寛政10年(1798)19歳の時には、江戸での改暦の仕事を終えて大阪にもどった間重富の門に入り、その後 4年の間、数学と天文・地理・測量を学んだ。
文化 3年(1806)高松藩の藩内測量を命ぜられ、同年10月渡辺専助ら、助手10人とともに、西部の引田浦から海岸線を西に向かって測量を始め、内陸部を折り返し国境に到ったといい、その際に使用された測量機器、八分儀、象限儀、地平儀、星目鏡などには栄左衛門の銘が入っていて、所有だけでなく製作に関わったことを示している。
文化 5年の伊能忠敬の讃岐での測量には、案内役として参加し、文化 6年(1809)には高松藩天文測量方に命じられ、のちに苗字「久米」を名乗ることをゆるされた。
後年は、藩の財政立て直し、洋式鉄砲の研究開発、測量技術を生かした干拓工事や塩田開発、別子銅山の改修、遠州での港湾工事などのほか、揚水機、精米機の考案なども手がけ、地域の産業振興全般に渡って功績を残した。当時の科学者・技術者に共通な多才な人であった。
特に、現坂出市新開での、総面積 131haという大がかりな塩田開発をわずか3年5か月で完成に導いたことが有名である。
これは、文政 7年(1824)に栄左衛門が高松藩の逼迫した財政を見かねて提出した「久米栄左衛門坂出墾田建白書」を、藩が 2年後に採用したもので、普請奉行に命じられこれを実行に移した。塩田開発は、大規模プロジェクトにはつきものの利権者の反対と資金調達の両面で暗礁にのり上げるが、既得権者との調整は藩主松平頼恕(よりひろ)の協力で解決する。しかし、資金の面では、藩からの資金提供だけでは十分ではなく、栄左衛門と親戚までも含めた一族の財産を枯渇させるほどの努力で、工事の完成を迎えたという。当然の事ながら、この開発に際しても緻密な測量が実施されたことが予想され、恩師の間重富、同郷・同門の伊藤弘(ひろむ)も協力したといわれる。頼恕は、文政13年 9月に、坂出塩田碑を建てて彼の功労を称えた。
文政11年に、塩田がよく見える位置に塩釜神社が建立され、昭和 9年には、地元住民が彼の功績を記念して望遠鏡を手にした栄左衛門の銅像を建立した。同11年には、藩主頼恕と栄左衛門を合祀した坂出神社も併設された。

- くめみちたかのページへのリンク