『レント』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/09/16 17:34 UTC 版)
「ジョナサン・ラーソン」の記事における「『レント』」の解説
1988年、脚本家ビリー・アロンソンはジャコモ・プッチーニの『ラ・ボエーム』のミュージカル化のアイデアを思い付いた。彼はプッチーニの甘美な世界観を粗野で喧騒なニューヨークに置き換えてみたかったのである。 1989年、アロンソンはアイラ・ワイツマンにこのアイデアを伝えてコラボレートできる相手を紹介してもらうことにし、そこで紹介されたのがラーソンであった。ラーソンは題名を思い付き、舞台をアッパー・ウエスト・サイドから、自身とルームメイトたちが住んだ荒廃したアパートのあるマンハッタンのダウンタウンに変更することを提案した。そのアパートでは室内で暖房がきかなかったため、ラーソンとルームメイトたちは不法に薪ストーブを使用していた。4年間、ラーソンはダンサーと別れては復縁を繰り返す交際をし、結局彼女に彼女ができたため完全に別れた。これらの経験が『レント』に自伝的な要素を与えた。ラーソンは自分の経験を込めて書きたかったため、1991年、アロンソンに元のコンセプトを譲ってもらえないか尋ねた。もしブロードウェイで上演することになったら、アロンソンに利益を分配することで合意に達した。結局舞台はソーホーではなくなり、イースト・ヴィレッジのアルファベット・シティになった。 1993年、ニューヨーク・シアター・ワークショップで読み合わせが始まり、その年の終わり頃、スタジオ・プロダクションにより3週間の公演が行われた。以降3年に亘りラーソン、プロデューサー、演出家の間で改善が加えられたが、現在世界中で公演されているバージョンは1996年1月25日にラーソンが亡くなってから公開されたものである。翌1月26日、オフ・ブロードウェイでプレビュー公演が予定通り初演された。上演のために駆け付けた両親は開幕を承諾し祝辞を送った。ラーソンが亡くなった翌日ということで、セットはテーブル3台のみという簡素な舞台で使用楽曲をただ歌い繋ぐだけにすることにした。しかし『La Vie Boheme 』までくると自分たちを抑えられず、ラーソン家および観客の許可のもと本来の予定通りの上演を行なった。上演後、長い喝采の後に静かになったが、観客の1人が「ありがとう、ジョナサン・ラーソン」と叫んだことで沈黙が破られた。 予定の上演期間は完売続きだったため延長された。これによりブロードウェイに進出することが決まり、1996年4月29日、ネダーランダー劇場で開幕した。オフ・ブロードウェイ『Boho Days 』を観てラーソンの作品に興味を持ったジェフリー・セラーがプロデュースしており、セラーの友人のケヴィン・マコラムとアラン・S・ゴードンがそのサポートを申し出た。 ラーソン本人がその開幕を目前に控えた初日の未明に循環器系の疾患で急逝するという悲劇に見舞われながらも、没後にピューリッツァー賞 戯曲部門最優秀作品賞、トニー賞ミュージカル部門で最優秀作品賞、最優秀脚本賞、最優秀オリジナル作曲賞、ドラマ・デスク・アワードミュージカル脚本賞、楽曲賞、作詞賞、ニューヨーク演劇批評家サークル賞ミュージカル作品賞、海外批評家サークル賞オフ・ブロードウェイ・ミュージカル作品賞、オビー賞脚本賞、作詞賞、楽曲賞を受賞した。
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