『ヨブ記』の伝統的な解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 00:18 UTC 版)
ハザルによるいくつかのミドラーシュにおいては、ヨブはミディアン人の祭司イトロと同時代の人物で、彼と同じくファラオの宮廷で仕えていたとされている。一方タルムードでは、その説に疑問を呈するに及んで「ヨブは実在の人物ではなく寓意に過ぎない」という伝統的なそれとは趣を異にする見解を提示している。 『ヨブ記』では、神の創造の計画は人間の理解を超えているので、義人の苦難という問題は理解の外にあるものとして位置づけている。文章上は、人間が生きている世界は神だけでなくサタンの支配も及んでおり、場合によっては正義が災いを受けて悪が栄えることもあるが、最後は神の影響力が勝利すると理解することができる。サタンが冒頭だけで、他は出てこないところも意味深長である。ただし、神とは何か、サタンとは何か、神とサタンは同じものなのか等の様々な疑問は残るところで、ヨブ記には、(本来は記述すべきであった)記述しきれない情報が大量にあることも理解しておく必要がある。 ラムバン(ラビ・モーシェ・ベン・ナフマン)の見解によれば、ヨブは輪廻転生の思想を示唆していたのであり、それこそが勧善懲悪の問題に対する真の解答になるとしている。彼以外の注釈者たちも『ヨブ記』には来世についての暗示があると強調しているのだが、実際のところ同書には輪廻転生の思想を匂わす記述は見当たらず、あべこべに、ヨブには人間の希望が死後にあることを否定している節さえ見受けられる。 「海の水が涸/川の流れが尽きて干上がることもあろう。だが、倒れ伏した人間は/再び立ち上がることはなく/天の続くかぎりは/その眠りから覚めることはない。」 — (14:11~14:12) 別の注釈では、『ヨブ記』は勧善懲悪の問題に対する解答をはぐらかしているのではなく、神の権威を示すことこそが同書の本義なのであり、その思想は後半部の自然界、動物界に関する描写に反映されていると述べている。また、人間同士の議論を経たところで神の営みを理解することは不可能であり、とにかく人間は、神の崇高さを前にしては謙虚に振舞い、些細な事にも気を配らねばならないと説いている。 『ヨブ記』の成立年代についてはタルムードの中で繰り返し議論されている。最も早期に見積もる説ではヨブの生きた時代を族長時代としており、それ以外には士師の時代、クセルクセスの時代を挙げている。
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