『ヨーロッパの概観』
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「パウル・ファン・ゼーラント」の記事における「『ヨーロッパの概観』」の解説
1921年、パウルは帰国してベルギー国立銀行へ入行した。翌年、修士論文をもとに『1913年から1921年の米国銀行改革』を出版し、金融の独立性を支持した。この1922年からパウルはジェノア会議をはじめとする国際経済会議のベルギー代表団に加わることになった。パウルは国立銀行の経済研究局に所属した。1925年、レオン・デュプリエ(Léon H. Dupriez)ら同僚にまじって財務省と連携し金本位制復帰に向けて研究した。1926年、ベルギー・フランの安定化に成功し金本位制復帰が実現した。それに対する貢献により、パウルは同年12月に33歳で国立銀行の理事となった。総裁のルイ・フランク(Louis Franck)は法律家であったので、通貨政策を研究してきたパウルが事実上のリーダーとなった。 1928年、母校ルーヴァン大学で金融分析の講義をかけもちすることになり、さらに同大学経済研究所を創設して所長となった。 パウルは国際決済銀行の創設に大きく関与した。パウルの推薦で弟マルセルが支配人となった。マルセルはルーヴァン大学で法学を学び、ロックフェラー家の支配したナショナル・シティー銀行(現シティグループ)のブリュッセル支店で副支店長を経験していた。パウルのアメリカ留学を支援したフランキも国際決済銀行の理事となった。 1933年、パウルが『ヨーロッパの概観(Regards sur l'Europe)』を出版し、不況克服を目的に国際金融市場の統合による相互補完を主張した。まさにこの頃、一昨年のローザンヌ会議をうけたロンドン世界経済会議において、ピットマンが銀協定をとりまとめたのである(詳細)。早くも銀まで視野に入れたブレトンウッズ体制ができかけていた。
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