『シビュラの書』の利用例
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「シビュラの書」の記事における「『シビュラの書』の利用例」の解説
『シビュラの書』は、疫病・戦争といった困難や、落雷などの凶兆に際して参照された。歴史家たちは、『シビュラの書』がクローズアップされた以下のような事例を伝えている。 紀元前399年 : 伝染病の後で参照され、レクティステルニウム (lectisternium) の祭典制度につながった(リウィウス 5,13)。 紀元前348年 : ガリア人とギリシア人の間での小競り合いの後、ローマで疫病の流行。別のレクティステルニウムが命じられた(リウィウス7,27)。 紀元前345年 : 昼間に空が暗転し、石の雨が降ったとされる時に参照された。プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ (Publius Valerius Publicola) はディクタトルに宗教儀式のための公共の祝日を設定するように進言した(リウィウス7, 28)。 紀元前295年 : アッピウス・クラウディウス (Appius Claudius) の軍勢の多くが落雷の被害にあったことや疫病を踏まえて参照され、キルクス・マクシムス近くにウェヌスに捧げた神殿が建造された(リウィウス10,31)。 紀元前293年 : 別の疫病の後でも参照され、エピダウロスのアスクレーピオス神をローマに招来させるべしとの対策を導いたが、サムニウム戦争に忙殺されていた元老院は、アスクレーピオスの公的な祝う日を設けた以外には何もしなかった(リウィウス10,47)。 紀元前240/238年 : 『シビュラの書』が参照された後で「花の祭典」(Ludi Florales) が導入された。 紀元前216年 : カンナエの戦いでハンニバルによってローマ軍が全滅させられた時にも参照され、勧告に従いガリア人とギリシア人が2人ずつローマの市場で生き埋めにされた。 紀元前204年 : 第二次ポエニ戦争の最中、スキピオ・アフリカヌスは神託の解釈に従って、キュベレの神像をペッシノス (Pessinos) から持ち帰り、キュベレ信仰をローマに根付かせた。 紀元前193年 : 相次ぐ地震を踏まえて参照された。そのときは3日間に渡って哀願することが強く勧められた(リウィウス、34, 55.)。 紀元前63年 : 「3人のコルネリウス」がローマを支配するだろうという予言を信じ、プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スラ (Publius Cornelius Lentulus Sura) は、カティリナの陰謀に加担した(プルタルコス『キケロ伝』、XVII)。 紀元前55年頃 : ローマ人たちが、エジプト王プトレマイオス12世を復位させるために援軍を送るかどうか討議していた時に、アルバヌス・モンスのユピテル像に落雷があった。そこで『シビュラの書』が参照された。その結果は、友誼は惜しんではならないが軍を派遣してはならない、さもなくばローマは苦労し、危機に陥るというものだった。しかし、元老院はポンペイウスを利することにならないように、一切の助力を拒絶した(ディオ・カッシウス『ローマ史』39:15)。 紀元前44年 : スエトニウスによれば、パルティアに勝てるのは一人の王だけという神託が、共和政の指導者だったガイウス・ユリウス・カエサルが王になろうとしているという噂を増幅させた(『ローマ皇帝伝』、79)。 西暦15年 : テヴェレ川が氾濫した時に、神官の一人が参照してはどうかと皇帝に進言したが、皇帝ティベリウスはこれを拒否した(タキトゥス『年代記』 I, 76)。 271年 : プラケンティアの戦い (Battle of Placentia) でローマ軍がアラマンニ人に敗れた時に参照された。 312年 : マクセンティウスは、キリスト教に改宗したコンスタンティヌス1世との戦いに備えて『シビュラの書』を参照した。 363年 : ユリアヌスはペルシアとの戦いに備えて、オリエントで信託を参照することを決めた。ローマから送られてきた神託の結果は、その年の越境を禁じるものだった(アンミアヌス・マルケリヌス『ローマ史』、XXIII 1, 7)。神託が参照されたのはこれが最後である。 408年: スティリコは『シビュラの書』の焚書を命じた。その理由はアラリック1世の攻撃に直面し、『シビュラの書』が統治者たちへの攻撃材料として使われていたためとされている。
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