『シビュラの書』
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ローマ人によると、シビュラ(巫女)の言葉を集めた『シビュラの書』は、大キュロスの時代、イダ山のゲルギス(Gergis)で生まれたと言われる。この書はヘレスポントのシビラ(Hellespontine Sibyl)の作とされ、ゲルギスのアポローン神殿に収められていた。その後、ゲルギスからエリュトライ(Erythrae)に渡り、そこでエリュトライのシビュラ(Erythraean Sibyl)の神託として有名になった。
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『シビュラの書』
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「シビュラの書」も参照 古代ローマにおいて『シビュラの書』として知られる文書があった。ハリカルナッソスのディオニュシオス、ウェルギリウス、ラクタンティウスなどは、元はギリシアないし小アジアに起源を持つとされるその文書が、クマエを経由してローマに持ち込まれた経緯を、以下のように伝えている。 クマエのシビュラがローマ王タルクィニウス(タルクィニウス・プリスクスないしタルクィニウス・スペルブス)に、9巻本の託宣を900ピリッポスで売ろうと持ちかけた。タルクィニウスがその法外な高さを理由に断ると、彼女は3巻分を焼き捨てて残りを再び900ピリッポスで売ると言い出した。それも断られると彼女はさらに3巻分を焼き、残りを900ピリッポスで売ると言った。王はその提案に興味を持ち(あるいは動転のあまりに)、それを受け入れ最後に残った3巻分を言い値で買い取った。 『シビュラの書』がカピトリウムの丘にあったユピテル神殿に奉納されていたことは事実だが、上記の経緯は後に潤色されたもので史実としての裏づけを否定されている。こうした伝説の背景には、『シビュラの書』が実際にはエトルリアに起源を持つと推測されているため、それに敵愾心を持っていたローマが、自らの神託の出自をより好ましいギリシアに仮託する意図があったと指摘されている。 ユピテル神殿に奉納された『シビュラの書』は、限られた聖事担当官(当初2人、のち10人、15人と増員された)しか参照することができず、特に必要とされた場合に聖書占いのように無作為に開いたページの章句を解釈して占ったという。 この伝説的起源を持つ『シビュラの書』は紀元前83年の火災で焼失し、かわりに各地の神託を集めて新たな『シビュラの書』が編纂された。これはアウグストゥス帝の時代(紀元前12年)にパラティウムの丘のアポロン神殿に奉納されたが、408年、ホノリウス帝時代の将軍スティリコによって焚書された。結果として、古代ローマで参照されていた本来の『シビュラの書』の内容は、当時の著書でごくわずかにそこからの抜粋と主張する詩句が引用されたりはしているものの、ほとんど伝わっていない。
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