『アイガー・サンクション』
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「クリント・イーストウッド」の記事における「『アイガー・サンクション』」の解説
トレヴェニアンの同名小説を原作とした『アイガー・サンクション』を製作した。小説が出版された1972年にユニバーサルが映画化の権利を取得し、リチャード・D・ザナックとデイヴィッド・ブラウンがプロデューサーを務める予定で企画が進んでいた。主演のヘムロック役にはポール・ニューマンが検討されていたが、彼は暴力的な内容を嫌悪して出演を辞退した。代わりにイーストウッドにオファーがきたため、彼は、1974年2月に小説家のウォーレン・マーフィーの元を訪れ意見を求めた。小説を読んだマーフィーは映画の脚本を書くことに同意したが、小説の内容には不満を感じていたという。脚本の第一稿は3月下旬に書き上がり、4月には完成した。 製作には、登山家のマイク・フーバーが登山場面の撮影監督と技術顧問として参加した。彼は撮影に先立つ1974年夏にヨセミテ国立公園で数週間イーストウッドに登山トレーニングを行い、8月12日からアメリカ・ドイツ・イギリス・スイス・カナダの登山家チームが参加してグリンデルヴァルトで撮影が開始された。イーストウッドが決めた勇敢な登山のシーンについて、国際登山学校のドゥガル・ハストン(英語版)は「撮影のために世界で最も危険な山であるアイガーを登る必要はない。クライマーだけではなく撮影監督のスタンレーも死なせることになる」と警告した。カメラマンのレックスフォード・メッツによると、登山のシーンにこだわったのはイーストウッドの少年時代からの夢であり、彼の英雄的マッチョイズムの現れでもあったという。 イーストウッドは警告を無視して撮影を行い、その結果撮影スタッフは多くの事故に見舞われた。27歳のイギリス人登山家のデヴィッド・ノウルズは撮影中に事故死し、フーバーも危うく死にかけている。ノウルズの死はイーストウッドに衝撃を与えたが、彼はノウルズの死を無駄にすることを望まなかったため、撮影を続行した。イーストウッドは死と隣り合わせの状況にも関わらず自身が登山シーンのスタントをすることを主張した。また、撮影中にスタンレーが滑落し奇跡的に助かったものの、怪我のため車椅子が必要になり撮影に支障をきたすようになった。スタンレーはイーストウッドに催促されて予定を遅れながらも撮影を完了させたが、完了後に「滑落事故はイーストウッドの準備不足が原因」として訴訟を起こし、イーストウッドを「彼は撮影の計画をろくにしない、あるいは宿題を全くしない本当に気楽な男だ」と非難した。訴訟は「撮影は一般的な知識に保護された状態の中で行われたもの」と結論が出され、これ以降スタンレーはイーストウッドやマルパソが参加する映画に呼ばれなくなった。 批評家はイーストウッドの演じたヘムロックを洗練さに欠けるキャラクターとして、「ジェームズ・ボンドの出来損ない」と酷評した。ウォール・ストリート・ジャーナルのジョイ・グールド・ボイムは、「この映画の悪役は同性愛者と身体障害者のような男だ」と批評した。映画の興行収入は2,380万ドルの結果に終わり、批評家からは「駄作」のレッテルを張られた。イーストウッドは映画の失敗を共同製作したユニバーサルに原因があると考え、再びユニバーサルと決別した。その後はフランク・ウェルズを通じてワーナーとの間に長期契約を結び、新たなパートナーに選んだ。
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