「戦争反対・平和」
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野中は回顧録の中で戦中「自分は軍国青年であった」と述べている。高知市の第155師団歩兵第452連隊(通称号:護土22756部隊)に所属していたときに終戦を迎え、坂本龍馬像の前で自決を考えたが、上官の将校に「死ぬ勇気があれば、これから日本の国を建て直す勇気に変えろ」と諭された。 京都府園部町長在任中の1962年、2,500人あまりの京都府出身者が戦死した沖縄県宜野湾市の嘉数の丘に京都府慰霊碑を建てるために訪れたときにタクシー運転手から「お客さん、あそこで、あそこで、私の妹は殺されたのです。アメリカ軍じゃないんです」と聞かされた。こうした体験から戦争反対や平和、残された戦争責任をきれいに片づけるべきという思いがあり、著書やインタビューなどで訴えている。 亀井静香は「野中は国士みたいな男で、のちの世代に苦しみを残してはいけないというようなことを考えている」と評している。実際に、野中は「戦後五十年の負のトゲを抜くんだ。この国が二十世紀にやり残したことを、禍根のないようにやり遂げる。それが自分らの責任だ」と発言したこともある。一方で、元官房長官で社民党衆議院議員だった野坂浩賢は「野中は本来、タカ派だと思う。しかし、政治家としてハトにもなりうる」とし、「あの土井たか子党首だって野中のことは嫌いじゃないんだ。おタカさんは、亀井(静香)は大嫌いだが、野中とは仲がいい」と発言していた。 2009年、永年の宿敵であった共産党の機関紙『しんぶん赤旗』のインタビューでも平和について語った。このインタビューについて朝日新聞(2009年7月31日)で問われ、「政治の最大の役割は戦争をしないこと。『戦争反対』であれば、どんなインタビューでも受けますよ」と答えている。 もっとも、こうした「平和主義者・野中」といった評価には疑問の声も少なくない。ジャーナリストの黒薮哲哉は、周辺事態法、国旗・国歌法、改正住民基本台帳法、通信傍受法といった法律を「後の軍事大国化につながる」ものであるとし、それらを小渕内閣の官房長官として主導した野中の政治姿勢や、その野中を高く評価する護憲派・左派に疑問を呈している。
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