銅鉱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 17:19 UTC 版)
産地は江南と四川に偏り、民営鉱山の生産量の9割以上を占める。官営と民営があり官営鉱山としては韶州岑水場・譚州永興場・信州鉛山場の3つが特に重要視された。宋初は鉱山毎に定量を課したが、定量課税は深く掘らねば採鉱出来ない長年操業された鉱山にとって負担が大きく、産出した銅の2割を納める抽分制に変わった。大量の銅銭を発行するため大量の銅が必要とされ、元祐年間以前は余剰分の半分を官が1斤250文で買い上げた。 北宋代の年間銅生産量・銅銭鋳造量は唐末の約50倍、宋初と比べても北宋末期までの150年間で約4倍に増加し銅貨の需要を賄った。しかし、南宋代に入ると鉱山業に対する増税などにより、銅銭の鋳造量は北宋後期の6~7%に減少、銅銭不足が起こり銅器の徴発や銅の海禁などが行われた。 銅の精錬には、礦銅の得られる乾式精錬(溶鉱炉による精錬)が行われていたが、技術革新により湿式精錬(化学反応による精錬)が実用化された。胆礬(硫酸銅5水和物)に鉄片を反応させ沈殿銅を得る技法を侵銅といい、得られる銅を胆銅と呼んだ。新技術は工程と人員が省け生産に掛かる費用が6割ほど削減され、鉱石から回収される割合も高い。 胆礬に鉄を反応させて銅を得る方法自体は、往古より知られていたが、北宋・太平興国年間に信州鉛山場の一部で精製に用いられ始め、景祐4年(1037年)には政府が銭遜を派遣し調査させている。新技法に精通する張潜によって、紹聖2年(1095年)の信州鉛山場を皮切りとして、前述の三場を含めた官営鉱山で全面的に実施され、文字通り生産量は倍増した。
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