蒸発熱 水の潜熱と気象

蒸発熱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/30 03:18 UTC 版)

水の潜熱と気象

フェーン現象
大気中の水分の凝縮熱が原因となって起こる気象現象

気化熱と分子間力

気化熱は、液体や固体中で分子間に働く分子間力に、分子が打ち勝つためのエネルギーであると解釈される[6]

希ガス

ヘリウムの蒸発熱が 0.08 kJ/mol と極端に小さいのは、ヘリウム原子の間に働くファンデルワールス力が非常に弱いためである。 希ガス原子間に働くファンデルワールス力は原子量が大きいほど強くなるので、蒸発熱はヘリウムの 0.083 kJ/mol からキセノンの 12.6 kJ/mol まで単調に増加する。

水素結合

室温で気体として存在する物質の蒸発熱は、トルートンの規則より、25 kJ/mol 程度かそれ以下である。おおまかには、分子量が大きくなるほど蒸発熱も大きくなる[注 12]。例えば、エタン(分子量 30)、プロパン(分子量 44)、ブタン(分子量 58)の蒸発熱は、それぞれ 14.7, 18.8, 22.4 kJ/mol であり、分子量とともに大きくなる。ところが、分子量 18 の 水 H2O の蒸発熱 40.6 kJ/mol は、分子量 16 のメタン CH4 の 蒸発熱 8.2 kJ/mol や分子量 34 の硫化水素 H2S の蒸発熱 18.6 kJ/mol と比べると、異常に大きい。これは、液体中の水分子の間には水素結合が働いているためである[14]。分子量 17 のアンモニア NH3 の蒸発熱が大きくて沸点が高いことも、液体中のアンモニア分子の間に働く水素結合で説明できる。

気体の不完全性

蒸発熱の実測値は、トルートンの規則からの予測値と大きく異なることがある。例えば、ギ酸の沸点 101 ℃ は水の沸点とほとんど同じであるが、ギ酸の蒸発熱 22.7 kJ/mol は水の蒸発熱の約半分である[12]酢酸の蒸発熱も同様で、予想される値の半分程度である。これは、これらのカルボン酸分子が気体中で水素結合により二量体を形成しているためである。また、水 H2O やアンモニア NH3 と同じように液体中の分子間に水素結合が働いているはずの、フッ化水素 HF(沸点 20 ℃)の蒸発熱は異常に小さく、7.5 kJ/mol である[11]。これも HF 分子が気体中で多量体 (HF)n を形成していると考えれば説明できる。これらの例ほど顕著ではなくても、蒸発熱の実測値は一般に、気体の不完全性の影響を受ける[15]。そのため、液体中で分子間に働く分子間力を蒸発熱に基づいて議論するには、気体の不完全さの補正が必要である。

標準蒸発エンタルピー

標準圧力 p° の下で液体が仮想的な理想気体に相転移するときの蒸発エンタルピーを、標準蒸発エンタルピー英語: standard enthalpy of vaporization)という[16]。標準蒸発エンタルピーを表す記号は ΔvapH° であり、気体が仮想的な状態であることを示す記号 ° が蒸発エンタルピーを表す記号 ΔvapH の右肩に付いている[17]。標準圧力 p° は 1 bar または 1 atm である。温度は何度でもよいが、通常は 25 ℃ における値がデータ集に記載されている[16]。標準蒸発エンタルピー ΔvapH° は、仮想的な理想気体の標準生成エンタルピー ΔfH°(g) から液体の標準生成エンタルピー ΔfH°(l) を引いたものに等しい。データ集[18][19][20]に記載の ΔfH° から計算した ΔvapH° を表に示す。

標準蒸発エンタルピー (25 ℃, 1 bar)
物質 分子式 ΔvapH° / kJ mol−1
フッ化水素 HF 28.7
四塩化炭素 CCl4 32.5
メタノール CH3OH 38.0
エタノール C2H5OH 42.6
H2O 44.0
ギ酸 HCOOH 46.2
酢酸 CH3COOH 52.2

これらの ΔvapH° の値は、25 ℃ の液体中の分子間の結合を断ち切るのに必要なエネルギーに相当する。25 ℃ の平衡蒸気圧 psat で気相の分子間力が無視できる場合は、ΔvapH°(25 °C)ΔvapH(25 °C, psat) の違いは無視できるほど小さい。

金属の気化熱

いくつかの例外(ビスマス水銀アンチモンアルカリ金属)を除くと、気液平衡にある金属蒸気は単原子理想気体とみなせる[21]。したがって、これらの例外を除けば不完全気体の補正は不要であり、データ集に記載されている金属の蒸発熱の値はそのまま、金属原子が金属結合に打ち勝って沸騰するために必要なエネルギーとみなせる。気液平衡にあるビスマス蒸気は Bi 原子と Bi2 分子を同程度に含む混合物なので、それぞれの蒸発熱を求めるには二つの化学種分圧を求める必要がある[22]

金属のモル当たりの昇華熱は、金属結合で結ばれた 1 モルの金属結晶の塊をバラバラにして 6.02×1023の原子にするのに必要なエネルギーに相当する。遷移金属の昇華熱は、数百キロジュール毎モルの程度である。

金属は概して高融点・高沸点であり、金属の違いによる沸点の差も大きい。そのため、金属結合の結合エネルギーを評価する場合、蒸発熱よりも昇華熱の方が有用である。標準圧力 p° の下で固体が仮想的な理想気体に相転移するときの昇華エンタルピーを、標準昇華エンタルピー英語: standard enthalpy of sublimation)という。記号は ΔsubH° である。昇華エンタルピーを表す記号 ΔsubH の右肩に記号 ° を付けて、気体が仮想的な状態であることを示している[17]。標準圧力 p° は 1 bar または 1 atm である。温度は何度でもよいが、通常は 25 ℃ における値がデータ集に記載されている[16]。水銀を除く全ての単体金属は 25 ℃、1 bar で固体であるので、単体金属の固体の標準生成エンタルピー ΔfH°(s; 25 °C) はゼロである。よって、25 ℃ における(水銀以外の)金属の標準昇華エンタルピー ΔsubH°(25 °C) は、データ集に記載されている金属原子の標準生成エンタルピー ΔfH°(g; 25 °C) に等しい。

金属の標準昇華エンタルピー (25 ℃, 1 bar)[23]
金属 元素記号 ΔsubH° / kJ mol−1
セシウム Cs 076.06
カリウム K 089.24
ナトリウム Na 107.32
カドミウム Cd 112.01
亜鉛 Zn 130.73
マグネシウム Mg 147.70
リチウム Li 159.37
カルシウム Ca 178.2
バリウム Ba 180
Pb 195.0
ビスマス Bi 207.1
Ag 284.55
スズ Sn 302.1
ベリリウム Be 324.3
アルミニウム Al 326.4
Cu 338.32
Au 366.1
クロム Cr 396.6
Fe 416.3

上の表に挙げた標準昇華エンタルピー ΔsubH° の値は、金属結合で結ばれた 1 モルの金属結晶の塊を 6.02×1023 個の原子までバラバラにするのに必要なエネルギーに相当する。すなわち、ΔsubH°(25 °C) はこれらの金属の 25 ℃ における原子化熱英語版に等しい。金属の原子化熱は、ボルン・ハーバーサイクルを用いてイオン結晶格子エネルギーを計算する際に必要となる数値である。


注釈

  1. ^ a b 物質の化学変化に伴って放出されるエネルギーのこと。
  2. ^ 蒸発の始めの段階では水自身の持つエネルギーを使って蒸発が起こり、水の温度が少し下がる。水の温度が食器や衣服や周りの空気よりも低くなると、水が周りから熱を吸収できるようになる。
  3. ^ 非接触温度計を除く。
  4. ^ a b c d e f g 平衡蒸気圧の下での値。
  5. ^ a b 本文中で引用した蒸発熱の値は、とくに断らない限り、1 気圧における沸点での値である。
  6. ^ 気体から固体に変化する現象を指して昇華ということもある。気体から固体に変化する昇華の場合は、エネルギーは放出される。
  7. ^ この経験則はトルートンの規則と呼ばれる。モル当たりの蒸発熱に特有の性質で、キログラム当たりの蒸発熱にこの様な性質はない。
  8. ^ 英語: enthalpy of vaporization。これを直訳すると「気化エンタルピー」となるが、『学術用語集 化学編(増訂2版)』では「蒸発エンタルピー」の訳をあてている。
  9. ^ 英語: enthalpy of sublimation
  10. ^ 分子が二量体になったり多量体になったり、原子が化学結合して二原子分子や多原子分子になったりすること。
  11. ^ 気相を理想混合気体とみなせるなら、蒸気のエンタルピーは分圧に依存しない。凝縮相のエンタルピーの圧力依存性は、熱力学的状態方程式を使うと凝縮相のモル体積熱膨張率から概算できる。圧力差が 1 気圧程度であれば凝縮相のエンタルピー差は 0.01 kJ/mol を超えない。
  12. ^ あくまでも、おおまかには、である。例えば、ペンタン(室温で液体)とネオペンタン(室温で気体)の蒸発熱はそれぞれ 25.8 kJ/mol と 22.8 kJ/mol であるが、分子量はどちらも 72 である。

出典

  1. ^ 化学辞典』「蒸発熱」。
  2. ^ 標準化学用語辞典』「蒸発熱」。
  3. ^ a b 新物理小事典』「気化熱」。
  4. ^ 大辞林 第三版』「気化熱」.
  5. ^ デジタル大辞泉』「気化熱」.
  6. ^ a b 関 1997, p. 214.
  7. ^ a b 特記ない限り本文中の蒸発熱は次のサイトに依る: Thermophysical Properties of Fluid Systems”. NIST. 2017年3月19日閲覧。
  8. ^ a b 東京消防庁<消防マメ知識><消防雑学事典>”. 東京消防庁. 2017年3月19日閲覧。
  9. ^ 物理学辞典』「蒸発熱」。
  10. ^ Zhang, Evans & Yang 2011, Table 11.
  11. ^ a b 化学便覧』 表10.55。
  12. ^ a b c 化学便覧』 表10.57。
  13. ^ 標準化学用語辞典』「蒸発エンタルピー」。
  14. ^ 関 1997, p. 272.
  15. ^ ルイス=ランドル熱力学』 p. 548.
  16. ^ a b c アトキンス物理化学』 p. 49.
  17. ^ a b グリーンブック』 p.73.
  18. ^ NBS 1982, Table 2:H.
  19. ^ NBS 1982, Table 9:F.
  20. ^ NBS 1982, Table 23:C.
  21. ^ Hultgren et al. 1963 p. 6.
  22. ^ ルイス=ランドル熱力学』 p. 549.
  23. ^ アトキンス物理化学』 表2・5.





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