蒸発熱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/30 03:18 UTC 版)
気化熱は潜熱の一種であるので、蒸発潜熱または気化潜熱ともいう。固体を気体に変化させるために必要な熱は昇華熱(しょうかねつ、英語: heat of sublimation)または昇華潜熱という[3]。単に気化熱というときは液体の蒸発熱を指すことが多いが、液体の蒸発熱と固体の昇華熱を合わせて気化熱ということもある[4][5]。以下この項目では、便宜上、液体の気化熱を蒸発熱と呼び、液体の蒸発熱と固体の昇華熱を合わせて気化熱と呼ぶ。
気体が液体に変化するときに放出される凝縮熱(ぎょうしゅくねつ、英語: heat of condensation)の値は、同じ温度と同じ圧力の蒸発熱の値に符号も含めて等しい。
物質量(mol)当たりの蒸発熱は、液体中で分子の間に働く引力に、分子が打ち勝つためのエネルギーであると解釈される[6]。
気化に必要なエネルギー
液体が気化する場合は、沸騰して気体になる場合と蒸発して気体になる場合がある。どちらの場合でも、気化にはエネルギーが必要である。多くの場合、気化に必要なエネルギーは熱として物質に吸収される。
液体の沸騰の場合
液体を沸騰させるのにエネルギーが必要であることは、コンロで湯を沸かすときのことを考えると分かる。このとき、水を沸騰させるのに必要なエネルギーは、コンロから供給されている。強火にしてエネルギーの供給速度を上げると、水が水蒸気に変化する速度も上がる。コンロの火を消すとエネルギーの供給が止まり、沸騰も止む。エネルギーの源になっているのは、ガスコンロでは燃料ガスの化学エネルギー[注 1]である。電気コンロやIHクッキングヒーターでは、電力会社から供給される電気エネルギーである。
液体の蒸発の場合
一方、液体が蒸発するときにもエネルギーが必要なことは、沸騰のときと比べると少し実感しにくい。水に濡れた食器や衣服は、乾燥機を使わなくても自然に乾くからである。乾燥機を使ったときのエネルギー源は、先の例と同じように電気エネルギーである。それに対して、自然に水が蒸発して乾くときのエネルギー源は、食器や衣服、そして周りの空気である。食器や衣服や空気のエネルギーが熱として水に与えられ、このエネルギーにより水が水蒸気に変化する[注 2]。液体が蒸発するときに周りから熱を吸収することは、以下の実験により確認できる。
- 準備: 消毒用アルコールとスポイトと料理用のデジタル温度計を用意する。
- 操作: デジタル温度計の感温部(温度センサー部)に、スポイトで消毒用アルコールを一滴たらす。
- 観察1: デジタル温度計の表示温度が低くなる。
- 観察2: 適当に表示温度が低くなったあとは、表示温度はあまり変化しなくなる。
この実験の観察1では温度計の感温部からエネルギーが熱として放出されている。というのは、温度計の表示温度は、感温部が熱を吸収すると上昇し、逆に感温部が熱を放出すると低下するものだからである[注 3]。感温部の周りの空気の温度は、アルコールをたらす前の感温部の温度とほぼ同じと考えられるので、感温部から熱を受け取っているのはアルコールである。温度計の表示温度が変化しなくなるのは感温部に正味の熱の出入りがなくなったときだから、観察2では、周りの空気や温度計のほかの部分から感温部に流れ込んでくる熱量と、アルコールに奪われる熱量とが釣り合っている。したがって、この実験では、温度計と空気がアルコールの蒸発に必要なエネルギーの源になっている。
エネルギーの供給について
この節で挙げた例では、沸騰の場合も、蒸発の場合も、どちらも気化に必要なエネルギーは熱として液体に吸収されている。コンロで湯を沸かす例では、エネルギー源は化学エネルギーまたは電気エネルギーであるが、水はこれらのエネルギーを直接受け取っているわけではない。水を入れているヤカンやナベなどの底を通して、熱としてエネルギーを受け取っている。液体が気化するとき、多くの場合、気化に必要なエネルギーは熱として物質に吸収される。この熱のことも蒸発熱という。
気化に必要なエネルギーは物質により異なる。データ集などでは、物質 1 キログラム当たりの値または物質 1 モル当たりの値が気化熱として記載されている。単位はそれぞれ kJ/kg (キロジュール毎キログラム)および kJ/mol (キロジュール毎モル)である。例えば 25 ℃ における水の蒸発熱は 2442 kJ/kg であり 44.0 kJ/mol である[注 4][7]。気化熱の大きさは、同じ物質でも気化する状況により変わる。通常は、1 気圧における沸点での値か、25 ℃ における平衡蒸気圧での値が物質の蒸発熱としてデータ集に記載されている[注 5]。例えば 1 気圧、100 ℃ の水の蒸発熱は 2257 kJ/kg であり、飽和水蒸気圧(32 hPa)の下での 25 ℃ の蒸発熱 2442 kJ/kg より1割近く減少する。
固体の場合
固体が気化する場合は、液体とは違って、沸騰して気体になることはない。固体が気化する場合はいつも、固体の表面から気化が起こる。固体の気化を昇華という。液体の蒸発の場合と同様に、固体の昇華にはエネルギーが必要である[注 6]。よく知られた例は、ドライアイスの昇華である。ドライアイスが炭酸ガスに変化するとき、気化に必要なエネルギーを周囲から熱として吸収するので、熱を奪われた周囲の温度は下がる。固体が昇華するとき、多くの場合、昇華に必要なエネルギーは熱として物質に吸収される。この熱を昇華熱という。
気化熱の利用
液体や固体は、気化するときに周りから熱を吸収する。この吸熱作用を利用した技術の例を以下に挙げる。
- ヒートポンプ
- 多くのエアコンや冷蔵庫で使われている技術。液体が気化するときに吸収した熱(吸熱作用)を別の場所で放出させることにより、温度の低い場所から温度の高い場所へ熱を運ぶ。「蒸気圧縮冷凍サイクル」も参照
- 火力発電
- 燃料の化学エネルギー[注 1]を電気エネルギーに変換する発電方法。燃料の燃焼によりボイラーで水が気化して水蒸気になる。水蒸気の持つエネルギーは蒸気タービンで力学的エネルギーに変換される。力学的エネルギーは発電機により電気エネルギーに変換される。この一連の過程の中で、水蒸気は熱の運び手として働く。「ランキンサイクル」も参照
- 乾湿計
- 湿度計のひとつ。水が蒸発によって湿球から熱を奪うことと、湿度により蒸発の速さが変わることを利用して、大気の湿度を計測する。
- 水による消火
- 消火に水が多く使われる主な理由のひとつに、その高い蒸発熱が挙げられる[8]。水の蒸発熱は1グラム当たり539カロリー[8]であり、同量の水が 0 °C から 100 °C になるまでに周りから奪う熱の5.39倍に相当する。
- ドライアイスによる保冷
- 二酸化炭素の固体は、常圧下では融解することなく気体に変化する。このときの昇華熱を利用して食品などを冷やすことができる。「寒剤」も参照
注釈
- ^ a b 物質の化学変化に伴って放出されるエネルギーのこと。
- ^ 蒸発の始めの段階では水自身の持つエネルギーを使って蒸発が起こり、水の温度が少し下がる。水の温度が食器や衣服や周りの空気よりも低くなると、水が周りから熱を吸収できるようになる。
- ^ 非接触温度計を除く。
- ^ a b c d e f g 平衡蒸気圧の下での値。
- ^ a b 本文中で引用した蒸発熱の値は、とくに断らない限り、1 気圧における沸点での値である。
- ^ 気体から固体に変化する現象を指して昇華ということもある。気体から固体に変化する昇華の場合は、エネルギーは放出される。
- ^ この経験則はトルートンの規則と呼ばれる。モル当たりの蒸発熱に特有の性質で、キログラム当たりの蒸発熱にこの様な性質はない。
- ^ 英語: enthalpy of vaporization。これを直訳すると「気化エンタルピー」となるが、『学術用語集 化学編(増訂2版)』では「蒸発エンタルピー」の訳をあてている。
- ^ 英語: enthalpy of sublimation。
- ^ 分子が二量体になったり多量体になったり、原子が化学結合して二原子分子や多原子分子になったりすること。
- ^ 気相を理想混合気体とみなせるなら、蒸気のエンタルピーは分圧に依存しない。凝縮相のエンタルピーの圧力依存性は、熱力学的状態方程式を使うと凝縮相のモル体積と熱膨張率から概算できる。圧力差が 1 気圧程度であれば凝縮相のエンタルピー差は 0.01 kJ/mol を超えない。
- ^ あくまでも、おおまかには、である。例えば、ペンタン(室温で液体)とネオペンタン(室温で気体)の蒸発熱はそれぞれ 25.8 kJ/mol と 22.8 kJ/mol であるが、分子量はどちらも 72 である。
出典
- ^ 『化学辞典』「蒸発熱」。
- ^ 『標準化学用語辞典』「蒸発熱」。
- ^ a b 『新物理小事典』「気化熱」。
- ^ 『大辞林 第三版』「気化熱」.
- ^ 『デジタル大辞泉』「気化熱」.
- ^ a b 関 1997, p. 214.
- ^ a b 特記ない限り本文中の蒸発熱は次のサイトに依る: “Thermophysical Properties of Fluid Systems”. NIST. 2017年3月19日閲覧。
- ^ a b “東京消防庁<消防マメ知識><消防雑学事典>”. 東京消防庁. 2017年3月19日閲覧。
- ^ 『物理学辞典』「蒸発熱」。
- ^ Zhang, Evans & Yang 2011, Table 11.
- ^ a b 『化学便覧』 表10.55。
- ^ a b c 『化学便覧』 表10.57。
- ^ 『標準化学用語辞典』「蒸発エンタルピー」。
- ^ 関 1997, p. 272.
- ^ 『ルイス=ランドル熱力学』 p. 548.
- ^ a b c 『アトキンス物理化学』 p. 49.
- ^ a b 『グリーンブック』 p.73.
- ^ NBS 1982, Table 2:H.
- ^ NBS 1982, Table 9:F.
- ^ NBS 1982, Table 23:C.
- ^ Hultgren et al. 1963 p. 6.
- ^ 『ルイス=ランドル熱力学』 p. 549.
- ^ 『アトキンス物理化学』 表2・5.
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