蒸発熱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/05 18:55 UTC 版)
物性値としての気化熱
物性値とは物質の性質を表す値である。この節では物性値としての気化熱[3][9]について述べる。
物質の気化に必要なエネルギーは物質の量に比例する。そのためデータ集などでは、物質 1 キログラム当たりの値または物質 1 モル当たりの値が気化熱として記載されている。単位はそれぞれ kJ/kg (キロジュール毎キログラム)および kJ/mol (キロジュール毎モル)である。例えば 25 ℃ における水の蒸発熱は 2442 kJ/kg であり 44.0 kJ/mol である[注 4][7]。熱量の単位としてカロリーを用いるなら、25 ℃ における水の蒸発熱は 584 kcal/kg であり 10.5 kcal/mol である[注 4]。
以下この項目では物質 1 モル当たりの気化熱を、単にその物質の気化熱と呼ぶ。
物質の気化に必要なエネルギーは物質により異なる。例えば 25 ℃ におけるメタノールの蒸発熱は 37.5 kJ/mol[注 4] であり、同じ温度の水の蒸発熱 44.0 kJ/mol[注 4] より小さい。おおまかには沸点の低い液体ほど蒸発熱は小さく、高沸点の液体の蒸発熱は大きい。例えば沸点 −269 ℃ のヘリウムの蒸発熱は 0.08 kJ/mol であり、沸点およそ 5900 ℃ のタングステンの蒸発熱は約 800 kJ/mol[10] である。沸点が互いに近い液体の蒸発熱は、似た値になることが多い[注 7]。ただし例外もある。例えば、四塩化炭素(沸点 77 ℃)、エタノール(沸点 78 ℃)、ベンゼン(沸点 80 ℃)の蒸発熱は、それぞれ 29.8[11], 38.6[12], 30.7[12] kJ/mol である。四塩化炭素とベンゼンの蒸発熱が 3% の精度で一致しているのに対して、エタノールの蒸発熱はこれらの物質よりも 30% 近く大きい。すなわち、エタノールを気化する際に必要となる熱量は、その沸点と分子量から予想される量よりも大きい。
気化に必要なエネルギーは、同じ物質でも気化する条件によって異なる。データ集に蒸発熱(または昇華熱)として記載されている値は、平衡蒸気圧の下で 1 モルの純物質の液体(または固体)が同温同圧の純粋な気体に変化する際に、外部から吸収する熱量である。つまり液体(または固体)が気体に相転移するときの潜熱である。この過程は定圧過程なので、吸収される熱量はエンタルピーの変化量に等しい。このエンタルピーの変化量を蒸発エンタルピー[注 8](または昇華エンタルピー[注 9])という[13]。すなわち、データ集に記載されている蒸発熱は、平衡蒸気圧の下での蒸発エンタルピーである。そのため『化学便覧』(丸善出版)のように、見出しが「融解熱」や「蒸発熱」ではなく、「融解エンタルピー」や「蒸発エンタルピー」となっているデータ集がある。
同じ液体でも気化する温度が高くなると、蒸発熱は小さくなる。例えば 25 ℃ の水の蒸発熱 44.0 kJ/mol[注 4] は、100 ℃ では1割近く減少して 40.6 kJ/mol となる。そのためデータ集などでは、蒸発熱に温度が併記されている。通常は、1 気圧における沸点での値か、25 ℃ における平衡蒸気圧での値が物質の蒸発熱として記載されている[注 5]。蒸発熱の変化量はキルヒホッフの法則に従って温度差にほぼ比例するので、沸点の高い液体では沸点における蒸発熱と 25 ℃ における蒸発熱の差は無視できないほど大きくなる。例えばドデカンでは、沸点 216 ℃ における蒸発熱は 44 kJ/mol であり、25 ℃ における蒸発熱 62 kJ/mol[注 4] の7割程度にまで小さくなる。
気化熱の圧力依存性は、気化した分子(や原子)の解離や会合[注 10]が起こらなければ、蒸気を理想気体とみなせるような低い圧力では無視できる[注 11]。よって温度が同じであれば、大気中へ気化するときの気化熱は、真空中へ気化するときの気化熱とほとんど同じとみなせる。例えば大気圧下 25 ℃ における水の蒸発熱は、この温度における水の平衡蒸気圧 32 hPa の下での値、すなわちデータ集に記載されている 44.0 kJ/mol に事実上等しい。また、液体に他の物質が溶けているときの蒸発熱は、一般には純粋な物質の蒸発熱とは異なるが、十分に希薄な溶液であればその違いは無視できる。例えば、空気に触れている水には酸素・窒素・二酸化炭素などが溶けているため、この水の蒸発熱は厳密には純粋な水の蒸発熱とは異なる。しかし、大気圧下では水に溶けている気体の量が微量なので、空気の影響は無視できる。水以外のほかの物質でも事情は同じである。大気圧下 25 ℃ で空気に接している液体が空気中に蒸発する際の蒸発熱は、蒸気分子の解離や会合が起こらなければ、データ集に記載されている 25 ℃ の平衡蒸気圧の下での純粋な液体の蒸発熱に事実上等しい。固体が空気中に昇華する際の昇華熱についても同様である。
注釈
- ^ a b 物質の化学変化に伴って放出されるエネルギーのこと。
- ^ 蒸発の始めの段階では水自身の持つエネルギーを使って蒸発が起こり、水の温度が少し下がる。水の温度が食器や衣服や周りの空気よりも低くなると、水が周りから熱を吸収できるようになる。
- ^ 非接触温度計を除く。
- ^ a b c d e f g 平衡蒸気圧の下での値。
- ^ a b 本文中で引用した蒸発熱の値は、とくに断らない限り、1 気圧における沸点での値である。
- ^ 気体から固体に変化する現象を指して昇華ということもある。気体から固体に変化する昇華の場合は、エネルギーは放出される。
- ^ この経験則はトルートンの規則と呼ばれる。モル当たりの蒸発熱に特有の性質で、キログラム当たりの蒸発熱にこの様な性質はない。
- ^ 英語: enthalpy of vaporization。これを直訳すると「気化エンタルピー」となるが、『学術用語集 化学編(増訂2版)』では「蒸発エンタルピー」の訳をあてている。
- ^ 英語: enthalpy of sublimation。
- ^ 分子が二量体になったり多量体になったり、原子が化学結合して二原子分子や多原子分子になったりすること。
- ^ 気相を理想混合気体とみなせるなら、蒸気のエンタルピーは分圧に依存しない。凝縮相のエンタルピーの圧力依存性は、熱力学的状態方程式を使うと凝縮相のモル体積と熱膨張率から概算できる。圧力差が 1 気圧程度であれば凝縮相のエンタルピー差は 0.01 kJ/mol を超えない。
- ^ あくまでも、おおまかには、である。例えば、ペンタン(室温で液体)とネオペンタン(室温で気体)の蒸発熱はそれぞれ 25.8 kJ/mol と 22.8 kJ/mol であるが、分子量はどちらも 72 である。
出典
- ^ 『化学辞典』「蒸発熱」。
- ^ 『標準化学用語辞典』「蒸発熱」。
- ^ a b 『新物理小事典』「気化熱」。
- ^ 『大辞林 第三版』「気化熱」.
- ^ 『デジタル大辞泉』「気化熱」.
- ^ a b 関 1997, p. 214.
- ^ a b 特記ない限り本文中の蒸発熱は次のサイトに依る: “Thermophysical Properties of Fluid Systems”. NIST. 2017年3月19日閲覧。
- ^ a b “東京消防庁<消防マメ知識><消防雑学事典>”. 東京消防庁. 2017年3月19日閲覧。
- ^ 『物理学辞典』「蒸発熱」。
- ^ Zhang, Evans & Yang 2011, Table 11.
- ^ a b 『化学便覧』 表10.55。
- ^ a b c 『化学便覧』 表10.57。
- ^ 『標準化学用語辞典』「蒸発エンタルピー」。
- ^ 関 1997, p. 272.
- ^ 『ルイス=ランドル熱力学』 p. 548.
- ^ a b c 『アトキンス物理化学』 p. 49.
- ^ a b 『グリーンブック』 p.73.
- ^ NBS 1982, Table 2:H.
- ^ NBS 1982, Table 9:F.
- ^ NBS 1982, Table 23:C.
- ^ Hultgren et al. 1963 p. 6.
- ^ 『ルイス=ランドル熱力学』 p. 549.
- ^ 『アトキンス物理化学』 表2・5.
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