矢田事件 矢田事件の概要

矢田事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/12/31 23:08 UTC 版)

最高裁判所判例
事件名 監禁
事件番号 昭和56(あ)558
昭和57年03月02日
判例集 集刑第225号697頁
裁判要旨
最高裁判所第三小法廷
裁判長 伊藤正己
陪席裁判官 環昌一 横井大三 寺田治郎
意見
多数意見 全員一致
意見 なし
反対意見 なし
参照法条
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本件の背景には共産党と解放同盟の対立があった[1]。本事件を契機に、1960年代半ばから燻り続けていた解放同盟と共産党との対立関係は決定的なものとなった。八鹿高校事件など解放同盟と共産党の一連の敵対事件の嚆矢であり、戦後同和運動史上きわめて著名な事件である。

別名、矢田教育事件。解放同盟は矢田教育差別事件と呼ぶ。

概要

1969年、大阪市住吉区の中学校に勤務する教諭が、大阪市教職員組合の役員選挙に立候補した際の挨拶状を、部落解放同盟(解放同盟)矢田支部が差別文書であるとして糾弾を決定。同教諭と関係者に過酷な糾弾をおこなった。これに対して教諭らは解放同盟役員らを逮捕監禁・強要未遂罪で告訴。解放同盟側は「糾弾権」の存在を主張し争った。

1審大阪地裁は「(糾弾権は)社会的に認められて然るべきもの」として無罪判決、検察側控訴。2審大阪高裁は「監禁行為は限度を超えており処罰に値する」 と逆転有罪判決。最高裁は2審判決を支持し、解放同盟側被告らの有罪が確定した。

経緯

事件の背景

部落解放同盟による説明

1971年に部落解放同盟の立場から『部落解放同盟・教宣シリーズNo3「矢田教育差別事件」とは何か』を執筆した[2]師岡佑行は、本事件の背景を次のようにまとめている。

1960年代後半、大阪市では、被差別部落のある公立学校を忌避し、天王寺中学校などの「名門」学校に、本来の学区内居住者でないにも関わらず架空の住民登録を使って通学させる「越境入学」が、部落差別の現れであるとして解放同盟が問題として取り上げ、行政側も解放同盟の指摘を受けて解消に乗り出し、教育行政上の大きな問題となっていた。

行政による調査の結果、学校によっては、現生徒数の半数近くが本来の通学校への転校が必要となるケースも明らかとなり[1]、それに見合う教職員の人事異動も必至の情勢となった。このため教師の間には戸惑いや、問題を提起した解放同盟、さらには解放同盟と協調して越境入学解消に取り組み始めた行政当局や教育委員会、教職員組合執行部への反発も生まれた(教師の中には、自身の子息を越境通学させている例も多く[1]、また、名門校への勤務は、出世へのステップや、当時大阪の教育界で取り沙汰されていた「リベート」「アルバイト」などの「教員利権」の獲得に極めて有利な条件だった[1])。大阪市教組内の共産党フラクションに属する組合活動家は、これを勢力拡大の好機ととらえ、教組が越境問題に取り組むのをサボタージュするよう活動を活発化させ、実際に市教組が定数異動の具体案を提示する執行部提案を中央委員会で否決させるなどの成果を挙げていた[1]

日本共産党による説明

日本共産党衆院議員三谷秀治は、全解連の生みの親の一人である和島為太郎の伝記の中で、日本共産党地区委員長の台詞を借り、矢田事件の背景を次のように記している。

「党から除名された志賀義雄に追従した反党分子などが市教組の執行部におります。反党分子は矢田中学にもおります。『解同』府連にもおります。かれらは組合内の党員や活動家に攻撃をかけ、市教組の役員から自覚的な活動家を一掃するために『差別文書』事件をデッチ上げたのです。(略)この攻撃を組織したのは解放同盟のなかの反共反党分子と市教組のなかの反共反党分子です。形の上では『解同』府連や市教組執行委員会に対するたたかいになっておりますが、それはかれらが教組や府連という機関を握り、組織の名においてわが党の活動家や民主的な教師を攻撃しているからで、内容においては反共反党分子とのたたかいといえます」[3]

木下挨拶状

1969年3月13日大阪市教職員組合東南支部書記次長選挙において、候補者である木下浄(日本共産党員、大阪市立阪南中学校教諭)が下記の立候補挨拶状を提出。

労働時間は守られていますか。 自宅研修のため 午後四時頃に学校を出ることができますか。 仕事においまくられて勤務時間外の仕事を 押しつけられていませんか。 進学のことや、同和のことなどで、 どうしても遅くなること、 教育懇談会などで遅くなることは あきらめなければならないのでしょうか。 また、どうしてもやりたい仕事も やめなければならないのでしょうか。 教育正常化に 名をかりたしめつけや管理がありませんか。 越境・補習・同和など、 どれをとりあげてもきわめて大事なことですが それにも名をかりて転勤・過員の問題や 特設訪問や、研究会や、授業でのしめつけがみられて 職場はますます苦しくなります。[4]

一見無難に見えるこの内容を、解放同盟は、木下が越境入学問題に取り組まないまま「教員利権」を保持し続けようとする姿勢を明らかにしたものと解釈し、挨拶状を差別文書とみなして糾弾会の開催を決定する。そしてその背景には、木下教諭が共産党員であり、先鋭化しつつあった共産党と解放同盟の対立関係があった。

解放同盟矢田支部は3月18日、木下教諭および同僚である推薦人の2人を地区集会所に呼び出して糾弾を行う。その席上「頭をはり倒したいくらいや!」「竹槍でブスッとやるところや」「お前、それでも教師か、頭悪いな」「認めへんのやったら、今晩帰したらんぞ!」などと指弾した。市教組執行委員会や大阪市教委は解放同盟に同調。また木下らも「みとめれば糾弾からのがれられると思って」[5]一旦はこれを差別文書とする見解に同意する発言をおこなった。

解放同盟による糾弾と教師による刑事告訴

木下らが差別を認める方向でまとまりつつあったかに見えた事態は、共産党大阪府委員会が組織的な指導に乗り出したことで一転した。大阪府委員会は、矢田支部の指摘に同意した木下らを、党員にあるまじき態度として厳しく叱責、この指導を受けた木下らは、1名[誰?]を除き差別文書ではないと態度を翻した。

再度の糾弾会への出席を約束しながら当日や直前になって欠席を通告するという対応をとり続けた木下とその推薦者たち15名に、矢田支部員らは業を煮やし、4月9日解放会館に実力で連行、深夜まで十数時間に及ぶ糾弾をおこなった。この時、拉致監禁の現場に立ち会った解放同盟員の一人に後の衆院議員上田卓三がいる[6]。当時の被害教師の一人は、この時の体験について

「解同から「差別者」のレッテルを張られた私は、勤務中の学校から力ずくで自動車におしこめられ、彼らが自由に使っていた市民館に拉致連行、その末に「糾弾集会」なる群衆のなかに立たされ、私と同じく暴力で連行されていた矢田中学の教師二人とともに屈伏を迫られました」[4]

と回想している。また、この時の解放同盟の脅迫文言は

「(われわれは)差別者に対しては徹底的に糾弾する、糾弾を受けた差別者で逃げおおせた者はない。差別者であることをすなおに認めて自己批判せよ、差別者は日本国中どこへ逃げても草の根をわけても探しだしてみせる。糾弾を受けてノイローゼになったり、社会的に廃人になることもあるぞ、そう覚悟しとけ」

「お前らいつまでたったら白状するのや、お前らは骨のある差別者や、ともかく徹底的にあしたでもあさってでも続いて糾弾する」

「社会的に抹殺してやる」

「お前たちが認めなければ、女房、子供をここに連れてきて、よめはんにいわしたるぞ」

というものであったことが、のち大阪地裁に認定されている[7]

1969年4月19日、金井清・岡野寛二・玉石藤四郎の3教諭が解同矢田支部長ならびに同書記長ら4人を逮捕監禁強要未遂罪刑事告訴した(矢田刑事事件)[8]。共産党は告訴とともに組織をあげて解放同盟を「暴力集団」と非難する文書の配布をはじめ[1]、解放同盟との敵対は決定的なものになる。5月6日から5月11日にかけて、4回にわたり、木下・金井・玉石の自宅付近に部落解放同盟の署名入りで「部落民を暴力団視する差別教師◯◯を糾弾する」「差別共産党員◯◯を糾弾する」といったステッカーが貼りめぐらされた[9]

1970年6月17日、大阪地検がこのうち2名を監禁罪で起訴。1971年2月10日、大阪地裁で公判が始まった。

この後、挨拶状を差別文書と位置づけていた大阪市教育委員会は、再三の教委の指導を拒み続けた木下たち11名の教員を左遷し、強制研修を命令。1973年7月17日、木下たち8名はこの処分の取消と損害賠償を求めて大阪市を提訴した(矢田民事事件)。

部落解放同盟の組織分裂

部落解放同盟の内部にもこの木下挨拶状を差別と認めない支部があったが、それらの支部は順次排除された[10]

まず、大阪府連は1969年6月29日の大会で堺市、東大阪市蛇草支部らの代議員権を剥奪。ついで両支部長を除名した[10]

1969年9月には、府連は堺支部の19名の支部執行委員の除名を強行[10]。10月には蛇草支部に対しても幹部4名を統制処分にかけ、さらに年末にかけて堺市、東大阪市蛇草、羽曳野市、箕面市の4支部を組織排除[10]。東大阪市荒本、高槻市、富田林市などの支部活動家の除名をおこない、約1000名の同盟員が組織から排除された[10]

刑事判決

部落解放同盟側が本件に関する被告人である。

1975年6月3日大阪地方裁判所(裁判長松井薫)は木下挨拶状を部落差別解消を阻害しかねない文書と認定、限度を超えない限り、被差別者による糾弾[11]も社会的に認められるべきもので、本件は部分的には行き過ぎではないかとみられる部分もあるものの、木下らの態度にも原因があるとして支部長らに無罪を言い渡した。これに対し、同年6月11日、大阪地検が控訴。

1976年9月28日、大阪高裁で控訴審が開始。1980年2月12日、被告人の1人である書記長が病没。1981年3月10日大阪高等裁判所(裁判長中武靖夫)は一審判決同様、木下挨拶状を部落差別を助長しかねない文書と認定、差別を受けた際、部落民が抗議行動を行うことは正当で、かなりの厳しさを帯有することもあり得ると判断しながらも、一連の被告人らの行為には行き過ぎがあったとして支部長に懲役3月(執行猶予1年)の有罪判決を言い渡した。同年6月18日、弁護団が最高裁に上告。

1982年3月2日最高裁判所(裁判長伊藤正己)が上告を棄却。これによって被告人らの有罪が確定した。

民事判決

木下教諭らが「原告」、部落解放同盟大阪府連の糾弾・確認に加担した行政「大阪市」側が「被告」である。

1979年10月30日大阪地方裁判所原告勝訴。大阪地裁は、木下挨拶状を「労働条件の改善を訴えるもので、差別性はない」と認定。被告大阪市は合計1140万円の損害賠償の支払を命じられる。

1980年12月16日大阪高等裁判所が一審判決を支持し、被告側の控訴を棄却。

1986年10月16日最高裁判所が被告側の上告を棄却。原告の勝訴が確定。

行政の対応

法務省は1989年8月4日、法務省権管第280号通達において、「糾弾会は同和問題の啓発に適さない」と解放同盟の「糾弾権」を否定した。


  1. ^ a b c d e f 師岡佑行『戦後部落解放論争史』第4巻 柘植書房、1985年
  2. ^ 師岡佑行『戦後部落解放論争史』第4巻、p.300。なお諸岡は同書のまえがきで「私は抗争、論争の渦中に一方の陣営にあって、第三者的立場に居合わせることはなくなる。つよい直接的な愛憎なしにこの時期の資料を手にすることができないし、どこにも記されていない思い出が、二重、三重に重なってくる」とも述べている。
  3. ^ 三谷秀治『火の鎖』p.412(草土文化, 1985)
  4. ^ a b 成澤榮壽編『表現の自由と部落問題』(部落問題研究所、1993年)所収 野々山志郎「『長崎市長への七三○○通の手紙』事件と今後の課題」
  5. ^ 日本共産党大阪府委員会委員長・松島治重による。『前衛』1969年10月号
  6. ^ 1969年4月19日には上田も逮捕監禁罪・強要未遂罪で刑事告訴されたものの、不起訴となっている。師岡佑行『戦後部落解放論争史』第4巻p.302による。
  7. ^ 大阪地裁1975年6月3日判決、判例時報782号23頁。
  8. ^ 『赤旗』1969年4月24日「四暴力分子を告訴、深夜まで監禁、強要」
  9. ^ 中原京三『追跡・えせ同和行為』p.127(部落問題研究所、1988年)
  10. ^ a b c d e 中原京三『追跡・えせ同和行為』p.128(部落問題研究所、1988年)
  11. ^ ただし、被害教師の一人は部落民であることを自ら明らかにしている。成澤榮壽編『表現の自由と部落問題』(部落問題研究所、1993年)ならびに諸岡佑行『戦後部落解放論争史』第4巻、p.290による。


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