部落解放同盟の見解
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確認・糾弾について、部落解放同盟は「部落差別によって被害をうけている部落大衆を救い、基本的人権を守るための唯一の方法」として用い差別糾弾闘争を部落解放運動の生命線と位置づけている。月刊『創』1995年2月号に掲載された部落解放同盟員の座談会では、1970年代までの糾弾会の様子が次のように語られている。 「たとえば机をひっくりかえしたとか、ネクタイしめあげたとかね。慣れた行政マンは糾弾の場にネクタイしてこなかったですよね(笑)。事実灰皿が飛んだりとかありましたよ」 「だから糾弾会というのはものすごく人間を変えるんですよ。今までやられっぱなしの側の人間がね、今度は相手を追及していくでしょう、立場が逆転するんですわ。そりゃあ快感ですよ。今まで大会社の普段滅多に会うことのできない社長が来て、『なんともならないことをいたしまして』言うてあやまらはるのや。こんな気持ちのええことはあらへんやろ。立場の逆転で、それで酔うていくの。その中のやり過ぎということもあったのは事実や。」 「『お前に差別されたもんの痛みがわかるか!』と言って首絞めたり、バーンと足踏んで、『どや! 痛いか!』と。『痛い痛い』言わはるやろ。『踏まれたもんの痛さがわかるか!』と言うてガチンガチンと足を踏むわけ。」 建前としては、部落解放同盟は「糾弾というのは話し合いですむ」、「暴力については絶対に否定しています」と暴力を否定しているが、部落解放研究所の村越末男は、1982年1月21日、八鹿高校事件刑事裁判の第61回公判で被告人側の証人として出廷し、「糾弾は基本的人権を守るに不可欠な自然権」「蹴る、殴るなどの行為はつきもの」と発言し、暴力糾弾を擁護した。 村越末男はまた「何よりもやり場のない怒りを、今目の前に居る具体的な差別者にぶちまける感情があった。もちろん復讐の感情も横たわっていたことを否定はできない。だから、感情の激発するままに、相手に対し暴行に及んだこともある」とも記している。 「矢田事件」、「元津事件」、「八鹿高校事件」、「戸手商業高校事件」、「天理西中学校事件」、および「吹田三暴力事件」も参照
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