部落解放同盟内部での対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:23 UTC 版)
「狭山事件」の記事における「部落解放同盟内部での対立」の解説
狭山闘争の進め方をめぐり、新左翼と手を結ぶことを認めるか、拒否するかという点で対立があった。前者を代表するのが朝田善之助(部落解放同盟委員長=当時)、後者を代表するのが西岡智(狭山中央闘争本部事務局長=当時)であった。この対立の結果、西岡は事務局長を解任された。当時、朝田は「ああいう浦和地裁を占拠して火炎瓶を投げたり、とくに高校生を連れて行ってやるのは、まちがっている。しかし、若者にああいう過激な行動をやらしているのはわれわれだ。われわれがもっと先頭に立ってやらんから、若い連中がはねあがるんだ」と発言していたという。 また、狭山同盟休校についても部落解放同盟側に立つ運動家の中で異論があった。1970年に師岡佑行らと「狭山差別裁判糾弾闘争に連帯する会」を組織した岐阜大学の藤田敬一は、「どうして子どもを闘わすのですか。もっと大人がやるべきことがあるじゃないですか。しかもこの闘争は行政闘争とは違って具体的な物的成果がない。成果としてあげられるのは、精神的思想的なものでしかない」と主張したが、「部落民でない君に何がわかるか!」と決めつけられ、狭山闘争から撤退した。その後、藤田は『同和はこわい考』(阿吽社、1987年)を書いて部落解放同盟の部落排外主義を批判したが、部落解放同盟中央本部からは1987年6月の第44回全国大会で名指しの非難を受け、「差別思想の持ち主」と指弾された。
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