新疆省 新疆省の概要

新疆省

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/28 17:06 UTC 版)

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中華民国 新疆省
← 1911年 - 1949年
簡称:


新疆省の位置
簡体字 新疆
繁体字 新疆
拼音 Xīnjiāng
カタカナ転記 シンジャン
国家 中華民国
行政級別
政府所在地 迪化市
建置 1911年
廃止 1949年(実効支配喪失)
1992年(事務所廃止)
面積
- 総面積 1,711,931 km²
人口
- 総人口(1928) 255 万人

清朝支配下の新疆は、かつて在地有力者を通した間接支配であったが、1860-70年代に起きたヤクブ・ベクの乱の結果、1884年中国内地と同様の省制が敷かれ、新疆省が設置された。辛亥革命後は、中華民国の地方行政区分として位置づけられたが、ソビエト連邦の強い影響の下、漢民族の官僚による独裁的な体制が維持され、事実上の独立状態となっていた。国共内戦終結後、1949年中華人民共和国政府の支配下に入り、1955年に新疆ウイグル自治区に改組された。

歴史

設立前史

乾隆帝ジュンガル征服により、旧ジュンガル領のタリム盆地イリ盆地は、清朝の支配下に入り、イチェ・ジェチェン(Ice jecen、新疆、「新たな征服地」の意)と呼ばれるようになった。清朝政府は、天山山脈北部にイリ将軍府を設置し、旗人による軍政を敷いた。その一方、ムスリム社会の末端行政には、在地の有力者に官職を与え、自治を行わせる「ベグ官人制」が敷かれ、在地の社会構造がそのまま温存された[1]

清朝末期

1865年から1870年にかけて、コーカンド・ハン国の将軍ヤクブ・ベクが新疆の主要都市を攻略すると、清朝政府は、1875年欽差大臣左宗棠を派遣し、ヤクブ・ベクの勢力を駆逐。新疆は再び清朝の支配下に入った。

ロシア国境の防衛を重視する左宗棠ら「塞防派」は、国境地帯に対する中央政府の統制を強めるため、新疆に対する従来の間接統治を廃止し、中国内地と同様の行政制度を導入することを主張した。これを受けて、清朝政府は、1884年に新疆省の設置を行った(「新疆建省」)[2]

新疆省の官衙は、迪化(現在のウルムチ)に置かれ、省政府の要員には、巡撫以下、科挙官僚が配置された。ベグ官人制も廃止され、内地と同様の区、府、州、県といった地方行政制度が導入された。

神戸大学教授の王柯はこの新疆省の設置について「民族自治の権利が剥奪され、ウイグル人は漢民族出身者による直接支配下に入った」としている[3]。また、王柯によれば、新疆省省長は1940年代半ばまで当地の軍最高指揮官(督弁)を兼任し、いずれも漢民族出身者が就任した[4]。また、新疆省政府役人は当地を「桃源郷」になぞらえ、指導者の交代も省政府内部の暗殺やクーデタによるもので、「この種の政権の交代劇においても、ウイグル人は何の役割も果たせなかった」という[5]

しかし、入植した漢人人口が当時3000人程度であった新疆南部では、省政府の人事権が及ぶのは県レベルまでであり、県レベル以下の行政運営はウイグル人に任せられた[6]

中華民国期

1911年の辛亥革命の勃発により、巡撫、イリ将軍、参賛大臣といった清朝の政治機構は廃止され、漢人の袁大化が新疆都督に任命されたが、イリの哥老会の圧力に恐れをなし、政治経験と軍事力を持つ楊増新が新たに省長として実権を握った。省長の下には、四庁一署(民生庁、財政庁、教育庁、建設庁、外交署)と呼ばれた行政機関が設置され、主として漢人官僚がそのポストを占めた。楊増新は軍の最高司令官である辺防督弁を兼任し、楊増新の暗殺後に新疆の実権を握った金樹仁も、省政府と軍のポストを兼任し、新疆を独裁的に統治した[7]

1933年クーデターで金樹仁が失脚すると、盛世才が辺防督弁として実権を握った。初期の盛世才政権では、省政府の要職にはソ連の支援を受けたムスリム住民の有力者が任命され、政府の各部門にはソ連より派遣された要員が顧問として配置された。盛世才は、1937年にソ連要員を追放して、中国共産党に接近したが、1944年に失脚し、中国国民党呉忠信が省政府主席となった[8]

中国国民党は、ソ連を仲介にして、1944年以来天山山脈以北を実効支配していた東トルキスタン共和国政権と交渉を行い、1947年に両者の合同による新疆省連合政府が発足した。新政権は1年で瓦解し、天山山脈以北は再び旧共和国政権の実効支配下に戻された。

1949年に国共内戦が終結すると、アフメトジャン・カスィミらイリの旧共和国系勢力と、ブルハン・シャヒディら省政府の国民党系勢力は、それぞれ中国共産党への合流を表明した。人民解放軍は、1949年9月にウルムチに、12月にはイリに進駐し、新疆省は中国共産党の支配下に入った。省政府主席には、国民党のブルハンが留任した[9]

1955年には、新疆省に民族区域自治が適用され、新疆ウイグル自治区が成立した。

省会

省会は迪化県(1933年に迪化市と改称)に設置された。




  1. ^ 小松 pp.305-311.
  2. ^ 小松 pp.314-317.
  3. ^ 王柯 『東トルキスタン共和国研究』 東京大学出版会 1995年,15頁
  4. ^ 王柯 『東トルキスタン共和国研究』 東京大学出版会 1995年,15-16頁
  5. ^ 王柯 ,1995年,16頁
  6. ^ 王 1995, pp.18.
  7. ^ 王 1995, pp.15-16.
  8. ^ 王 1995, pp. 85-86.
  9. ^ 小松 pp. 379-381.
  10. ^ 『政府公報』503号 1913年9月28日
  11. ^ 内務部職方司第1科『全国行政区画表』1914年
  12. ^ 『新疆通志』第24巻 1992年 新疆人民出版社
  13. ^ 王 1995, p.15.
  14. ^ 王 2006, pp.158-162.
  15. ^ 王 1995, p.61.
  16. ^ 2015.4.11法提合先生、耿慶芝女士演講「漫談新疆省政府辦事處」
  17. ^ 中華民國統計資訊網 行政區域及村里代碼 http://www.stat.gov.tw/ct.asp?xItem=39438&CtNode=1519&mp=4


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