宮島の鹿 宮島の鹿の概要

宮島の鹿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/19 18:33 UTC 版)

厳島 > 宮島の鹿
平家納経 平清盛願文見返絵』。広島藩初代藩主福島正則の依頼により俵屋宗達が修復したものであり、史料上確認できる宗達の事績の初見にあたる。これは昭和初期の複写本からであり実物は着色されている。
北尾重政 『浮絵安芸国佐伯郡厳嶋図』鹿が数頭確認できる。
2代目歌川広重『諸国名所百景 安芸宮島汐干』

沿革

厳島は約6,000年前縄文海進により本州と離れ離島化したが、その際に本土側の鹿の個体群から分断したものが宮島の鹿の起源であると考えられている[1][2]。のち本土側個体群の分布域が縮小して厳島の対岸側には鹿が生息しなくなったことで厳島のものが孤立化した[1]

厳島の鹿は厳島神社の神使とされているが、奈良の鹿春日大社のような神鹿伝説は厳島には存在しない[3]カラスが厳島神社を建てる位置を示したという神烏伝説が残るが、鹿に関するものはない[3]。厳島神社が創建されると島自体が神の存在であるとして神の島と呼ばれだし[4]、以降現在までに何度か厳島=宮島=神の島であると強調された時期があり、そのたびに神鹿として崇められてきたと推察されている[3]。あるいは一般的な神社における神鹿思想と宮島島民の風習(神の島での不殺生)が結びついたものであると地元歴史家は分析している[5]

過去の文献において宮島の名が用いられているものに、源通親『高倉院厳島御幸記』[注 1]がある。鎌倉時代に成立した『撰集抄』に宮島の鹿に関する記載がある[6]

所にしゝをからされは、御山には男鹿啼、草に露落、野地東なれは、虫の声盛に侍り

— 作者不明(西行に仮託された創作)、撰集抄 巻五第一二 厳嶋
毛利家文庫『芸州厳島御一戦之図』鹿が数頭描かれている。

陰徳太平記厳島の戦いの項で、包ヶ浦に上陸した毛利元就の前に1頭の鹿が現れたことが書かれている。

かかりける所に小男鹿一匹林の中より出て元就父子の前に来れり。元就唯今男鹿の来る事。明神忝も道迎にいたさせ給たるならん。神明應護疑いなし。合戦の勝利掌の中に在と宣。

— 香川正矩、陰徳太平記 巻第二十七
岳亭一麿『厳島八景之図 谷原麋鹿』[注 2]

江戸時代、宮島が行楽地・観光地として栄えていくと同時に厳島 = 宮島 = の島が定着していった[3]。この時代以降、訪れた文人・僧たちが日記の中に鹿のことを書き、様々な絵図が描かれた[6]

初春に はじめて鹿の 声きけば いつも恵は ゆたかなりけり

— 福島正則慶長13年(1608年)正月[5]

1710年宝永7年)に関する「厳島服忌令」が出され、この中で神鹿であること古くから保護されてきたことが明文化された[3]1715年正徳5年)、厳島光明院の僧・恕信は厳島八景の一つに選んでいる。家に入るのを防ぐ「鹿戸」、残飯を餌として与えた「鹿桶」などあった[5]

小原古邨『月 鹿 宮島』
1935年(昭和10年)。

明治初期、神仏分離廃仏毀釈によって島は大きく混乱した。政治的に安定した後のことになる1879年明治12年)広島県令により、鹿を守るために全島が禁猟区となりを飼ってはならないと定められた[3]

宮島の 紅葉が谷は 秋闌けて 紅葉踏み分け 鹿の来る見ゆ

— 正岡子規

第二次世界大戦後、鹿は激減した(原因については定かにされていない)[2][1][3]。少なくなった鹿を大願寺境内で柵で囲い込んで繁殖し20から30頭になった時点で開放したりなど、地元住民による保護対策によって回復している[5][2][1][7]。また1949年昭和24年)明治時代に作られた県令が廃止となったことを受け、同年に旧佐伯郡宮島町が鹿保護条例を制定、鹿の保護が明示され殺傷や犬の飼育を罰則付きで禁止した[5][3]。なおこの際に奈良[2][1]あるいは京都[5]から鹿を導入したとされているが、廿日市市は公式に否定している[1][8]

山陽新幹線などの交通網の発達により島には観光客が増え[2]、観光客用に鹿せんべいを販売した。1979年(昭和54年)観光資源としての鹿を保護する目的で、それとは別に給餌が始まった[2]。この1960年代から1970年代に個体数は激増したと考えられている[5][9][10]

現代の鹿戸
食害防止用の防護柵。こうした島内での柵の取り付けが啓蒙されている[11]

鹿に関連したグッズを販売し観光の目玉となる一方で、その管理が乏しかったこともあり、トラブルが増加した[2][12]1985年(昭和60年)宮島居住者を対象としたアンケートで、鹿の糞が汚い・臭う、ゴミを散らかしてしまう、植木生垣盆栽を食べてしまう、角で突かれる・自動車との接触事故・食べ物をとられるなどの被害の発生、などが問題点として挙がった[2]

また、1998年(平成10年)後半ぐらいから鹿の食料バランスが崩れ始めた。広島大学附属宮島自然植物実験所の2002年平成14年)頃の報告によると、鹿が草木の樹皮や新芽を食べる・雄鹿が樹齢の若い樹で角をとぐために枯死するなど植物に多大な被害を与えるようになった[7]。宮島のオオバコなどの植物は、食害を受け選択圧がかかることで、矮小化や葉の形態変化が報告されている[7][13]

管理

1972年(昭和47年)頃から雄鹿の角切を始める[10]1978年(昭和53年)、旧・佐伯郡宮島町が協議会を設立、個体数調査が行われ市街地に約350頭がいることがわかる[10]。これを山に帰すため餌場が設けられ、1987年(昭和62年)頃まで行われた[10]。また1984年(昭和59年)、島の南側である藤ヶ浦地区に柵を設けて雄鹿を隔離する策がとられた[10]。ただ改善には至らなかった[10]1996年(平成8年)、厳島神社とその背後の弥山原始林が世界遺産に登録される。

1998年(平成10年)、事態を重く見た旧・佐伯郡宮島町は「宮島町シカ対策協議会」を発足し、餌やりの禁止を中心とした鹿の野生復帰の方針を示し対策を施した[14][10]。ただこれでも解決には至らなかった[14][10]。2005年、宮島町は廿日市市に編入される。2006年環境省による鹿の植生被害調査が行われ、周辺自然環境への鹿の影響が大きくなっていることが明らかとなった[14][10]2007年(平成19年)、廿日市市からの依頼を受け広島県が宮島全域を対象とした鹿の生息調査を行い、餌やりの禁止を中心とした保護管理報告書を作成した[14][10]。この流れから2007年(平成19年)から島内で鹿せんべいの販売が禁止されている[15]

以上の結果を受けて、2008年(平成20年)、廿日市市は宮島町の関係者及び学識経験者で「廿日市市宮島地域シカ対策協議会」を設立、生息状況などに係るモニタリング調査及び住民意識調査を踏まえ「宮島地域シカ保護管理計画」を策定し保護管理対策に努め、2014年(平成26年)、第1期の保護管理計画を継続した「第2期宮島地域シカ保護管理計画」を策定した[14][16]。これは地元住民の理解と協力の元に策定されたもので、県も賛同している[14][16]

以下、宮島地域シカ保護管理ガイドラインの基本方針を列挙する。

  • 個体数管理、生息環境の保全、被害防除などの総合的な対策を実施する。
  • 計画策定の手続きを透明化し、地域全体の合意形成を重視する。
  • 科学的知見に基づく保護管理目標を設定する。
  • 目標設定から対策の実施まで、科学性の確保と情報公開に努める。
  • モニタリングによって対策の効果を検証し、計画へのフィードバックのしくみを整備する。
  • 地域に根ざした対策を定着させるため、行政と住民が一体となった取り組みをめざす。
  • 専門家・関係機関・NPOなどとの連携を強化する。
— 宮島地域シカ保護管理ガイドライン、[17]

ただ、これに反対する勢力がいる。県は2013年(平成25年)時点で送られてくる意見・提言を大きく4つに分類し公開した[14]

  • 宮島は世界遺産の島であり、また宮島のシカは厳島神社の神の使いでもある。海外からの旅行客にも恥じないように、大切にしなければならない[14]
  • シカが餌やり禁止で餓死に追いやられている。虐待されている[14]
  • 餌やりを禁止し、野生に返すのであれば、芝生の造成などにより餌を確保すべきである。山にはシカの餌となる植物が生えていない[14]
  • シカの個体数を調整するために、避妊手術で計画的に減少させるべきである[14]

協議会調査による市街地を中心とした島の北東部での個体数は、2010年(平成22年)頃まで減少傾向にあったが2015年(平成27年)から2018年(平成30年)にかけて増加傾向にある[18]。減少傾向となったのは餌やりの禁止により市街地からその周辺外へ鹿の行動域がシフトしたためと推定されており、逆に近年の増加傾向は島外からの恒常的な給餌が原因であるとしている[9][19][16]


注釈

  1. ^ 治承4年(1180年)高倉院(高倉天皇)の厳島御幸に随行した源通親の紀行文。題は厳島表記だが、中の文ではすべて宮島あるいは宮じま表記。
  2. ^ 谷原とは現在のうぐいす道の紅葉谷公園側の地。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k 資料2 2019, p. 2.
  2. ^ a b c d e f g h i 中村緑. “宮島----世界遺産の島------”. 広島大学総合科学部環境地形学研究室. 2020年9月2日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 淺野 2002, p. 198.
  4. ^ 宮島が神の島と呼ばれる理由とは・・・”. ホテル宮島別荘 (2016年10月13日). 2020年9月2日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i 11.シカの通勤 薄らぐ野生 餌求め下山”. 中国新聞 (2006年1月15日). 2020年9月2日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g しか・たぬき”. 宮島観光協会. 2020年9月2日閲覧。
  7. ^ a b c d 宮島のシカの食害”. 広島大学附属宮島自然植物実験所. 2020年9月2日閲覧。
  8. ^ a b c 管理計画 2019, p. 7.
  9. ^ a b c 生息状況 2019, p. 4.
  10. ^ a b c d e f g h i j 管理計画 2019, p. 1.
  11. ^ 管理計画 2019, p. 19.
  12. ^ a b c d e 淺野 2002, p. 200.
  13. ^ 植物のこころ. 岩波新書. (2001年5月8日) 
  14. ^ a b c d e f g h i j k 宮島地域のシカについて”. 広島県 (2013年9月4日). 2020年9月2日閲覧。
  15. ^ 生息状況 2019, p. 5.
  16. ^ a b c d 管理計画 2019, p. 2.
  17. ^ 管理計画 2019, p. 4.
  18. ^ a b c 生息状況 2019, p. 3.
  19. ^ a b c d 生息状況 2019, p. 9.
  20. ^ a b 管理計画 2019, p. 13.
  21. ^ カキ養殖の光と影――海岸に拡がるプラスチックの「雪」。広島の市民はどう動いているのか”. ハフポスト (2015年7月4日). 2020年9月2日閲覧。
  22. ^ 管理計画 2019, p. 3.
  23. ^ a b c 生息状況 2019, p. 1.
  24. ^ a b c d 生息状況 2019, p. 18.
  25. ^ 宮島のシカの生態”. 山口大学農学部細井研究室. 2020年9月2日閲覧。
  26. ^ a b 管理計画 2019, p. 8.
  27. ^ a b c d 生息状況 2019, p. 7.
  28. ^ a b c 生息状況 2019, p. 10.


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