中華思想 その他の地域

中華思想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/11 00:14 UTC 版)

その他の地域

中華思想は儒教とともに中華圏の周りの東アジア諸国に分有され、自らを「中華王朝(大中華)と並び立つもしくは次する文明国で、中華の一役をなすもの(小中華)」とみなす小中華思想を持ち、中華王朝に臣下の礼を取ったり、その国自体が「中華」となり、周辺諸民族を「夷狄」とする、中華思想共有圏 (文化圏) と言えるものが形成される。それと同時に思想の内容が形骸化したり、中華思想自体を否定する動きも見られた。

日本

古代には中華王朝であるから漢委奴国王印から「親魏倭王」印を与えられ、倭の五王が朝貢したことが伝えられるが、飛鳥時代にはに対し「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」という国書を渡したように中華帝国に対し対等の関係を表明して独立を宣言している。儒教も仏教と同時期に伝来しているが、仏教の普及に力が入れられ儒教が国家の思想とされることはなかった。

「夷」征討に際し任命された征夷将軍太平洋側を攻め、日本海側を攻める将軍は征狄将軍(鎮狄将軍)、九州へ向かう将軍は征西将軍(鎮西将軍)と呼び、中華思想の「四夷」を当て嵌めたとされている。しかし次第に太平洋側以外への征討も征夷大将軍が行うようになった。鎌倉時代以降は征夷大将軍は武士の棟梁であり、実質的な最高権力者でもある幕府の長の称号として用いられ、異民族征討の長という意味合いは形骸化した。しかし江戸幕府末期に昂揚した尊王攘夷思想により「征夷大将軍なのに夷狄である西洋諸国を征討していない」という論争も起こっている。

江戸時代に入り、朱子学が江戸幕府に官学として取り入れられ政治に反映されるようになった。しかし科挙が存在しなかったこともあり、朝廷や公家、町人などの武家社会以外は思想統制を受けなかったため国全体のイデオロギーにはなり得ず、中華式に「藤」と一文字の姓を名乗り明の官服を着ていた藤原惺窩のような例外は除き主従関係や道徳面が重要視され華夷秩序は重要視されなかったが、学問の先達として中華王朝に対する尊敬の念は残った。

が異民族王朝のに支配されると、日本の朱子学者の一部、林羅山などは、日本の天皇家は中華正統王朝である周王朝の分家である太伯の子孫であるから、日本こそは中華であると主張し始めた。更に、明の遺臣の一部は清に仕えることを潔しとせず抵抗もしくは亡命し、そのうちの一人である朱舜水は、夷狄によって治められている現在の中国はもはや中国でなく、亡命先の日本こそが中華であると述べた。日本の江戸時代儒学者山鹿素行は著書『中朝事実』の中で「日本ではすでに神道という聖教が広まっており、もし聖人の道が行われていることが中華であることの理由ならば日本こそが中華である」という主張をした。

また、国学者本居宣長は歴史書『馭戒慨言』『うひ山ぶみ』『玉勝間』などの著作において「まづ漢意(からごころ)をきよくのぞきさるべし」と儒教などの中華的精神をはじめとした外来思想の排除の必要性を強く主張し、文化面や政治・外交面において日本人として自立した価値観を持つことを訴えている。 これらが後に水戸学や平田派国学へも思想的影響を与え、幕末の尊王攘夷論に結びつくこととなる。

明治維新後は朱子学教育を受けた下級武士階級が政権を担ったこともあり、西洋のキリスト教社会に対抗するために朱子学的な道徳が広められ、太平洋戦争中に天皇を現人神として崇め奉り、軍部が敗色濃厚になるや神州(中華正統王朝)不滅を唱えるに至ったのは、朱子学に基づく中華思想に影響されたものであるという[27]

朝鮮

朝鮮の歴史においては中国と直接国境を接しているため安全保障の背景から皇帝に対し臣下の礼をとり国内の敵対国との抗争に有利な立場を得たり儒教及びそれに伴う華夷観を受容し、中華に同化することで自国の格上げを図る道を選択するなど[28]、自らを「中国(大中華)と共に中華を形成する一部(小中華)」と見なそうとした。

ベトナム

ベトナムの歴史においては自国と中国を南国と北国、自国人と中国人を南人と北人と呼んで対比し両者の対等性の主張がしばしば行われた。『大越史記全書』に代表されるベトナム王朝の正史には中国への貢物の進呈や中国からの冊封の事実を記しているが朝貢使の派遣については「宋に如く」「清に如く」などと書かれ対等の外交関係とみなしている。

1010年に李公蘊ハノイに建都したことを賞賛する中でハノイが 地の利 を得たことの効果として李氏が宋に抵抗し占城を平らげることができ、その後の歴代帝王も中国に抗衡できたことを強調した[29]

1285年の元寇の記録には陳平仲中国語版が元軍に捕縛され王爵を以て降伏を勧告されたのに対し「むしろ(死んで)南の鬼になろうとも、北の王にはなるまいぞ」と呼んで元人に殺害されたことや[30]1370年に即位した陳朝芸宗が先朝日礼の国制がのそれに従わなかったのは「南北おのおの、その国に帝たる」がゆえんであるとして衣服楽章などを「北俗」に合わせることを拒否した[31]

1329年ごろに成立した国家祭祀を受けた神々の事績集越甸幽霊集においても李朝の仁宗の時(1076年)に来侵した宋兵に対して

南国山河南帝居 裁然分定在天書 如何逆虜来侵犯 汝輩行看取敗虚

と詩を吟ずるのが聞こえたとされ「南国の山河には南の帝が居る」という一句が北国や北の帝との対比を暗示している[32]

黎朝で儒教の礼制と科挙官僚制を基礎とする集権国家体制の確立を見るなか、「中国」を「北国」としそれに対する自らを「南国」とする国家意識(「南国意識」)が形成され、「中国」世界からの自立が意図された。明軍撤退後の1428年、黎朝を建国した黎利の命により儒者の阮廌が撰述した『平呉大誥中国語版』において

おもうに我が大越国は実に文献の邦たり。山川の封域すでに深くして、南北の風俗また異なる。趙の我が国をはじめて造れるより、漢唐宋元と各々一方に帝たり。強弱は時によりて不同ありといえども、豪傑は世に未だかつて乏しからず。

という一節を見るようにベトナムは「文献の邦」(文明国)であって夷狄の地ではなく、地理や領域は「中国」とは異なり、風俗も南(ベトナム)と北(中国)では異なる。これは「中国」世界からの自立宣言に等しいものとされる。併せて自己を文明人(「京人」)、周辺の異民族を夷狄(「土人」)とする中華思想が展開された。この「京人」が、今日のベトナムの多数民族であるキン族の名称の起源である[33]。しかしカオバンを拠点とし鄭氏政権に抵抗していた莫敬宇中国語版が1677年鄭軍に追われ中国領鎮安州を「内地鎮安州」と表記したり[34]、ベトナムの儒者の一人、黎貴惇中国語版が北部の鄭氏が南方の広南阮氏を倒したことを述べた『撫辺雑録』において、中国を「上国」(大明・大清とも)と呼ぶなど、朝鮮と同様事大主義の一面を隠し切れない難点もあった。

ベトナムはカンボジアやラオスのような「小国」を皇帝の徳の及ぶ藩属国と見なし、シャムなどの大国とは対等な外交を意味する「邦交」関係を維持した。19世紀の阮朝では中国との関係も、国内では朝貢ではなく対等の「邦交」だとしていた。また阮朝の明帝代のカンボジア経営では行政単位や官職をベトナム式にし、仏寺を破壊して儒教のを建てるなどの同化政策を採った[33]

この意識はフランス植民地支配下においても存続し、1920年代までのベトナム人のインドシナに対する認識には「中華」であるベトナムから見て他民族を、蛮夷の経営という枠組みで山地民族を組織化しようとした潘佩珠のような改革派から、ベトナム人の優先説を説く改良派まであった。1930年代までのインドシナ共産党の文献でも、「ベトナム民族」という場合にはキン族のみを指しており、この点はナショナリストと共産党の間に大差はなかった。40年代初期の路線では、ベトナムという枠組みはキン族を核としつつ、その他の少数民族を包摂した枠組みとなった[33]

ベトナムの南北分断がもたらした北ベトナムの中国依存の構図は、中国からの離脱という近代ナショナリズムの源流から生まれた共産主義者たちを再び中国に引き戻し、毛沢東思想はベトナム労働党の党規約において普遍モデルとして受容されるに至ったが、その後の中国の文化大革命後の混乱と、60年代からの「ベトナム・モデル」の提唱、そしてベトナム戦争の激化はベトナム史像をナショナルなものに変えた。中国歴代王朝の侵略に対抗し、キン族を中心とし、周辺民族が結集した「ベトナム国民」がきわめて早期に形成されたとされ、ベトナムが中国文明の影響を受けて発展したという側面は完全に否定され、四千年の愛国主義の伝統がベトナム革命の推進力であるという考えが1970年刊行の党の正史に記された。このようなキン族を中心とし、周辺民族を結合していこうという傾向は、南北統一後には中国系住民をめぐる問題となり、ボートピープルなどの悲劇を生むことになる[33]


注釈

  1. ^ 以下、竹内の引用する説文解字の説や、歴史上の文献により概略を述べる。

出典

  1. ^ a b c d 百科事典マイペディア[要ページ番号]
  2. ^ a b 華夷思想 - 世界大百科事典 第2版”. コトバンク. 2021年8月28日閲覧。
  3. ^ a b 京都大学文学部東洋史研究室編『東洋史辞典』(初版)東京創元社、1971年3月1日、468頁。 「中華思想」項
  4. ^ 京都大学文学部東洋史研究室編『東洋史辞典』(初版)東京創元社、1971年3月1日、103-104頁。 「華夷思想」項
  5. ^ a b c d e デジタル大辞泉[要ページ番号]
  6. ^ 応地利明「<知の先達たちに聞く(5) : 応地利明先生をお迎えして>大同生命地域研究賞受賞記念講演会 インドと中国 : それぞれの文明の「かたち」」『イスラーム世界研究』第5巻第1-2号、京都大学イスラーム地域研究センター、2012年2月、88-118頁、doi:10.14989/161191ISSN 1881-8323 
  7. ^ 竹内実『中国の思想』NHKブックス、1999年。 
  8. ^ 陳舜臣の説。[要文献特定詳細情報]
  9. ^ a b 黄斌『中国における近代ナショナリズムの受容とネーションの想像 : 章炳麟・梁啓超及び孫文のナショナリズム論を中心に』 早稲田大学〈博士(学術) 甲第3128号〉、2010年。hdl:2065/36274NAID 500000542843https://hdl.handle.net/2065/36274 
  10. ^ 章炳麟『太炎文録』、『中華民国解』
  11. ^ 『荀子』「正論」
  12. ^ 中島隆博『悪の哲学:中国哲学の想像力』筑摩書房〈筑摩選書〉、2012年。ISBN 9784480015433 pp.194-196.
  13. ^ 後藤多聞『ふたつの故宮』NHK出版
  14. ^ 小島毅『宋學の形成と展開』,東京:創文社,1990。[要ページ番号]
  15. ^ 堀敏一『律令制と東アジア世界』汲古書院、1994年[要ページ番号]
  16. ^ 島田虔次『朱子學と陽明學』東京:岩波書店,1967。[要ページ番号]
  17. ^ 堀敏一『律令制と東アジア世界』汲古書院、1994年[要ページ番号]岡田英弘『中国文明の歴史』講談社、2004年[要ページ番号]日本の東洋史学における通説となっている。[要出典]
  18. ^ 清朝とは何か P.2
  19. ^ 金振雄「日本における「清朝史」研究の動向と近年の「新清史」論争について―加藤直人著『清代文書資料の研究』を中心に」『Quadrante : クァドランテ : 四分儀 : 地域・文化・位置のための総合雑誌』第20巻、東京外国語大学海外事情研究所、2018年3月、169-174頁、doi:10.15026/91617ISSN 1344-5987 
  20. ^ 于紅 2002, pp. 81.
  21. ^ 于紅 2002, pp. 81–82.
  22. ^ 于紅 2002, pp. 85.
  23. ^ 于紅 2002, pp. 87.
  24. ^ 于紅 2002, pp. 88.
  25. ^ 于紅 2002, pp. 89–92.
  26. ^ 于紅 2002, pp. 98–99.
  27. ^ 狩野君山[要文献特定詳細情報]山本七平『現人神の創作者たち』の説
  28. ^ このような朝鮮の態度から中国は朝鮮を「小中華」と呼んだ。小中華という言葉は17世紀に文献上に初出するが、そこには「ああ、我が国は海の辺隅にあり、国土は狭小ではあるが、礼教・音楽・法律・制度、衣冠(身分秩序)・文物(文化の産物)、ことごとく中国の制度にしたがい、人倫は上層ではあかるく、教化は下のものに行われた。風俗の美は中華をひとしくなぞっている。華人(中国人)はこれを称して小中華という。」(『童蒙先習』総論末尾、1699年本、粛宗王序・宋時烈跋文)と書かれている。
  29. ^ 『大越史記全書』本紀2:李太祖 頂天元年(1010年)の「史臣呉時仕日」
  30. ^ 『大越史記全書』本紀5:陳仁宗 紹宝7年(1285)2月
  31. ^ 『大越史記全書』本紀7:陳芸宗 紹慶元年11月15日
  32. ^ 『大越史記全書』本紀3:李仁宗 太寧5年春3月条
  33. ^ a b c d 古田元夫:『ベトナムの世界史』,東京大学出版会,1995。
  34. ^ 『大越史記全書』本紀19:黎玄宗景治5年<1667>9月条
  35. ^ 論香港人之身份(戴毛畏) - 熱新聞 YesNews
  36. ^ 大中華主義
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  45. ^ 宮家邦彦『語られざる中国の結末』、PHP新書。その要約


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