フランスの経済 歴史

フランスの経済

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 06:13 UTC 版)

歴史

第二次世界大戦以前のフランスの経済の詳細は、フランス銀行預金供託金庫、およびen:Economic history of Franceを参照。

臨時政府、第四共和政

第二次世界大戦によりフランスはナチス・ドイツヴィシー政府(一部・イタリア王国)に分断・支配され、戦場と化し、インフラの整備も遅れ、また破壊されたことより、フランス経済は疲弊した[3](鉱工業生産指数は1938年=100とした場合、1944年で38)。加えて、マルサス主義に束縛され、19世紀末から20世紀初頭の第二次産業革命の時期に英米独と比較して人口が増加しなかったこと[4] が消費市場の狭隘さを生みだし、「人口はほぼ5000万人に停滞、農村的性格を有し」[5] ていた。

ナチス・ドイツ降伏後、フランス共和国臨時政府が政権を獲得したが、政権の中枢はフランス共産党フランス社会党(SFIO)、人民共同運動(MRP)の三党連立政権であった。臨時政府は全国抵抗評議会が作成したCNR綱領に沿った構造改革を行うことで、「『マルサス主義』の克服のために計画化、国有化、民主化を推進」[6] することだった。

ナチス・ドイツに協力したことを理由に1944年12月に、パ・ド・カレー北部炭坑(後、フランス石炭公社(fr)に改組)、次いでルノー(1945年1月)が国有化された。その後、フランス銀行、四大商業銀行(クレディ・リヨネ(en)、ソシエテ・ジェネラル、全国割引銀行、全国商工業銀行)、34の保険会社などが国有化された。また、電力・ガス供給のために、フランス電力公社フランスガス公社が設立され、運輸部門では鉄道では、すでに大戦中に国有化されており、エール・フランスが国有化された[6]

企業の国有化の一方、経済社会の民主主義化がすすめられ、労働組合結成の自由、社会保障の整備がすすめられた。

1946年10月に臨時政府から第四共和政に政権が移行したが、引き続き、フランス共産党、SFIO、MRPの三党連立政権(ただし、1947年5月にフランス共産党は政権から離脱)が戦後復興を行うことになるが、物不足の中で輸入超過が進み、外貨不足は深刻となり、物価上昇が進んだ[7]。第二次世界大戦中の共産党の躍進もあり、フランスの共産化を防ぐべく、マーシャル米国務長官マーシャル・プランを実施、フランスには全体の24%が投下され[8]、国土の復興が図られた。

マーシャル・プランで投下した資本を元に、ジャン・モネが計画・立案したモネ・プラン(第1次計画、1948年~1953年)では、(1)電力、(2)石炭、(3)鉄鋼、(4)セメント、(5)鉄道・運輸、(6)農産物の6部門に重点的に資本を投下した。その結果、1948年には工業・サービス部門が、1950年には農業が1938年を超える水準にまで回復した[9]。しかし、朝鮮戦争を原因とした輸入財の物価上昇が始まり、1950年の7.9%から1952年には2.3%、1952年には3.0%へと低下、貿易赤字も1952年には6,180億ドルに達し、景気は失速していった[10]

モネ・プランの後で始まった、Étienne Hirschが作成したイルシュ・プラン(1954年~1957年、第2次計画)により、オイルショックまで続くフランスの高度経済成長(Trente Glorieuses)が始まった。イルシュ・プランでは6部門から17部門に資本を投下する分野が拡大され、経済成長を誘導する手法を採用、ボトルネックの解消から経済全体の均衡のとれた発展が目標となり、生産の量より質を重視された[9]。イルシュ・プランにより、1950年代の年間の経済成長率は平均4.5%となり、軽工業から重化学工業へと産業の構造が転換した[11]。また、住宅ラッシュや消費財の普及、1944年から続いた人口増加が経済拡大を後押しした。一方で、物価上昇が続き、フランス国内では生産できない資本財は海外からの輸入に頼るなど国際収支は悪化し、成長を阻害する原因となった。

普仏戦争第一次世界大戦、第二次世界大戦の反省から、ジャン・モネの提唱を受けて、1950年5月9日ロベール・シューマン外相がシューマン宣言を発表、翌1951年にフランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス三国の計6国で欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が、次いで1957年欧州経済共同体(EEC)欧州原子力共同体(EURATOM)が発足した。

ド・ゴール、ポンピドゥー、ジスカール・デスタン

シャルル・ド・ゴール

アルジェリア戦争により、第四共和政から第五共和政に政権は移行し、シャルル・ド・ゴールが大統領に就任した。ド・ゴールの任期中(1958年~1969年)、国内では経済成長につれテレビ洗濯機冷蔵庫自動車等の耐久消費財が普及した。同時代の日本の高度経済成長には及ばないものの、1960年代のフランスは年平均5.7%の経済成長を果たした[12]。これに並行して、イル=ド=フランスなどの経済の中心地域と、西部・南西部・中部といった農村地域との間に経済格差が生まれた。農業の近代化とともに第一次産業の従事者が減少する一方、新しい中間層としてホワイトカラーが増加していった。

1963年シムカクライスラーに、1964年マシンブルジェネラル・エレクトリックに買収され、ド・ゴール政権は外資に対して規制を厳しくするようになった。抗議の意味をこめてフランスは1966年に北大西洋条約機構を脱退した。内政では同年7月29日、政府が鉄鋼業界と協約を結び、合理化(実態は合理化カルテルの促進)を条件に手厚く保護した。公共事業10億フランの斡旋、補助金3億フランの拠出、1970年まで売上げの1%に満たない法人税という大盤振る舞いであった。そして何よりも27億フランに達する経済社会開発基金貸付が注目を浴びた。これはインフレ上昇分を考えると実質18億フランの贈与であるとH. Sègre に分析されている。

対英米路線は片手落ちだった。1967年にECSC・EECが発展解消してEC が成立した。EC は公務員の国籍要件を骨抜きにした。国防に直接の関係がないという理由で、国家出資庁が支えている公企業であるにもかかわらず、公共交通機関・電気通信・保険金融といった分野に外国人が登用されていった[13]。そして彼らは外資に対する規制を緩和してゆき、ちょうど1968年五月革命のころに完全自由化された。はかなくもド・ゴールはイギリスなど4カ国のEC 加盟に反対し続けたが、ECSC という鉄鋼カルテルの呪縛から逃れることはできなかった。任期中の経済成長を新聞に載る程度に浅く論じれば、エネルギー革命により安価な石油が利用できたことや、オフショア市場により世界的好況が演出されたという背景が指摘できる。しかしより直接の原因は巨額の財政支出と外資流入であり、それらは共に鉄鋼カルテルに由来した。1969年、ド・ゴールは辞任した。

同年の選挙に勝利したジョルジュ・ポンピドゥー(1969年~1974年)はフランス・フランの切り下げや産業再編を試みた。1973年に大きなできごとが3つ起こった。一つはイギリスのEC加盟である。もう一つはオイルショックであり、フランス経済は高失業・インフレというスタグフレーションに陥った。最後は欧州特許条約である。フランスが大不況期に取りまとめた工業所有権の保護に関するパリ条約は、戦前から電気系企業の要請を受けて改正されてきた。そしてついに欧州特許条約が特則となって、欧州特許庁はECから特許の所管を切り離したのである。1974年4月に白血病でポンピドゥーは死んだ。この前後それぞれ3ヶ月ほどにフランス・フランが非常な人気を呼び、欧州通貨制度を一次離脱したり、銀貨をより安価な金属で置き換えたりした。

金融畑のポンピドゥーは外国銀行に手厚かったし、後継のジスカール・デスタンも同路線を受けついだ。1970年から1977年に外国預金銀行の資産は激増した。以下100万フラン単位で具体例を挙げる。シティバンク893から17282で19.35倍、北欧商業銀行5227から15540で2.97倍、モルガン・ギャランティー3647から12159で3.33倍、バンカメ831から9825で11.82倍、チェース・マンハッタン3619から9799で2.70倍、東京銀行556から4758で8.56倍、バークレイズ501から4710で9.40倍となった。他にモルガン系のケミカルやロックフェラー系のファースト・ボストンもやってきて、それぞれ資産を1977年に52億と30億フランにした。ウェストミンスター銀行も資産を55億フランにした。ブラジル銀行は54億ドルとなった。[14] 当時の間接金融離れで成長した米国資本の進出が目立つ。

新たに大統領へ選出されたヴァレリー・ジスカール・デスタンen)(1974年~1981年)は、1975年第1回先進国首脳会議ランブイエで開催した。また、フルカート蔵相とレイモン・バール首相が共に緊縮政策を実施した。スタグフレーションは加速してしまい、1977年に鉄鋼業界で前年比の生産実績が急激に落ち込んでいた。営業損失が資本調達費用をいれて40億フランに迫った。1978年6月30日、主要鉄鋼会社の借入金は、Groupement des industries sidérurgiques から110億フラン、銀行から93億フラン、経済社会開発基金から85億フラン、クレディ・ナショナルから12億フランとなった[15]。1974年から1979年の間に極端な原発建設が推進されて35基も新しくできた。1979年に再びオイル・ショックが起こり、1979年に3.5%[12] まで回復した実質経済成長率が1981年には0.9%[12] にまで落ちた[16]

ミッテラン

フランソワ・ミッテラン

1981年フランス大統領選挙en)で選出された社会党出身のフランソワ・ミッテラン(1981~1995年)は1982年に主要企業を国有化することで、事態の打開を図ったものの失敗[17]、実質経済成長率は、1983年に1.2%、1984年に1.5%、1985年に1.7%と停滞[12]、失業率・物価上昇の改善もみられなかった[1]1985年国民議会選挙で敗北したため、ミッテランは国民運動連合(UMP)ジャック・シラクを首相に任命した(第1次コアビタシオン)。1988年にミッテランは「ni-ni政策」(これ以上の国有化も民営化もしない(これ以上の国有化も民営化もしない ni nationalisation ni privatisation) を打ち出し、この流れを止めようとした。

シラクは、国有化された企業を民営化(例 ルノーソシエテ・ジェネラルなど)し、金融市場を整備することで経済に活力を与えようとしたが、フランス政府がある程度の安定株主として株式を保有しており、ディリジスムの色彩は残った[18]

1980年代のフランスは、雇用回復なき経済低成長であった。インフレからは脱却したものの、職業教育の立ち遅れや賃金の硬直性、雇用創出力の伸びが低いこと、生産年齢人口の増加と女性労働力率の上昇により失業率は高止まりし[19]、先端技術製品市場における地位は日米独英に差をつけられる一方であった[20]

シラク、サルコジ

1995年フランス大統領選挙で勝利したジャック・シラク(1995年~2007年)が大統領に就任した頃には、移民の問題、雇用なき経済回復、若年失業者の増大といった問題が山積していた。シラクは大統領就任早々、ユーロ参加の条件を満たすために財政赤字はGDPの3%未満であること(収斂基準)から、公約として掲げていた財政出動を取り消し、緊縮財政を行い、結果として2002年のユーロ参加につながることになった。

オランド政権下の現在

2012年フランス大統領選挙ではフランソワ・オランドが大統領に就任したが、左派である自党の社会党に加え右派のUMPと国民戦線の支持率が拮抗し、混沌とした情勢となっている。左派からは富裕層増税・新自由主義からの脱却・ワークシェアリングの推進が提起され、右派からはイノベーションの推進が提起される状況であり、現在はこうした方針を硬軟両様に織り交ぜながらフランス国民が一体となって新産業を創出していく時代となっている。

17年ぶりの社会党政権として発足したオランド政権は、2013年から2年間の時限措置で、年収1000万ユーロを超える個人の所得税率を、現行の約40%から一気に75%に引き上げる案を示した。2012年中にベルギー国籍を申請したフランス人は126人に達した。憲法会議は2012年12月末に「税の公平性に反する」として、違憲判断を下した[21]


  1. ^ a b c d e World Economic Outlook Database, October 2009”. International Monetary Fund. 2009年12月19日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m THE WORLD FACTBOOK”. CIA. 2009年12月13日閲覧。
  3. ^ 長部(1995)pp.333-334
  4. ^ 長部(1995)pp.335-336 1830~1930年の100年間にイギリス、ドイツ、アメリカの人口はそれぞれ3倍、2倍、13倍増えたのに対し、フランスはわずか1.3倍にとどまった。
  5. ^ 長部(1995)p.336
  6. ^ a b 長部(1995)p.347
  7. ^ 渡邊(1998)p.39。パリの小売物価指数(1938年=100)は、以下のように推移した。1944年 285、1945年 393、1946年 645、1947年 1,030、1948年 1,632、1949年 1,817
  8. ^ 渡邊(1998)pp.39-40
  9. ^ a b 長部(1995)pp.348-349
  10. ^ 渡邊(1998)pp.57-58
  11. ^ 長部(1995)p.350
  12. ^ a b c d INSEEより計算。French GDP”. INSEE. 2009年12月19日閲覧。各年を とおき、各年の実質GDPを(1960年=100)とし、各年の実質GDP経済成長率をとすると、1969年の実質GDPは約165になる。それを相乗平均すると約5.7%になる。
  13. ^ 菅原真 「フランスにおける外国人の公務就任権(3)近代国民国家における<国籍>・<市民権>観念研究序説」 法学73(5), 74(1,4) 2009-2010年
  14. ^ Le Nouvel Economiste/Spécial 5000, Nov. 1978, p.215.
  15. ^ Jacques Barraux et les autres, Acier - La fin des maîtres de Fourges, Le Nouvel Economiste, 25 Sept. 1978, p.52.
  16. ^ 長部(1995)p.373
  17. ^ 渡邊(1998)pp.217-219
  18. ^ 渡邊(1998)pp.230-234
  19. ^ 長部(1995)pp.382-383
  20. ^ 長部(1995)pp.384-385
  21. ^ 日経新聞 仏「税率75%」避け富裕層脱出 ベルギー国籍、倍増126人 2013/1/9 23:44
  22. ^ 平成21年度版科学技術白書 p.54 第1-3-7図 主要国等の研究費の推移(購買力平価換算)”. 文部科学省. 2009年12月19日閲覧。
  23. ^ 平成21年度版科学技術白書 p.55 第1-3-8図 主要国等の研究費の政府負担割合の推移”. 文部科学省. 2009年12月19日閲覧。
  24. ^ Food and Agricultural commodities production”. FAO. 2009年12月19日閲覧。
  25. ^ 『世界の統計2009』p.112 表4-4 農業生産量―穀物・いも類・豆類”. 総務省統計局. 2009年12月19日閲覧。
  26. ^ Table C1 – Value of agricultural imports and exports, FAO Statistical Yearbook 2007-2008”. FAO. 2009年12月19日閲覧。
  27. ^ 【世界の製薬企業ランキング】減収もファイザーがトップ守る-武田薬品が「100億ドルクラブ」に”. 薬事日報社. 2008年8月17日閲覧。
  28. ^ L'électricité en France en 2008”. Ministère de l'Écologie, de l'Énergie, du Developpement durable et de l'Aménagement du territorie. 2009年8月6日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2009年12月19日閲覧。(仏語)
  29. ^ Leading exporters and importers in world merchandise trade, 2007”. World Trade Organization. 2009年12月19日閲覧。
  30. ^ Annual Report 2010”. Banque de France. 2012年7月30日閲覧。
  31. ^ 経済動向-フランス”. JETRO(日本貿易振興機構). 2015年3月22日閲覧。
  32. ^ ドイツの貿易黒字は「不公平」、政府高官が異例の批判=シュピーゲル誌”. Reuters. 2015年3月22日閲覧。
  33. ^ 欧州委、13年までの財政規律達成を独・仏などに勧告へ”. ロイター. 2009年12月19日閲覧。
  34. ^ EU財務相会合、加盟13カ国に対し財政赤字削減の期限を設定”. ロイター. 2009年12月19日閲覧。
  35. ^ Barclays Wealth Insights, Volume 5:Evolving Fortunes, In co-operation with the Economist Intelligence Unit (pdf)”. Barclays Wealth. p. 5. 2015年3月閲覧。





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