フランク王国 歴代フランク国王

フランク王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/24 23:27 UTC 版)

歴代フランク国王

制度

王権

初期王権

トゥルネーで発見されたキルデリク1世印璽。長髪を蓄えた王の姿が描かれている。

フランクの王権概念がどのようにして成立したかについては、数多くの研究者によって多様な見解が述べられてきた。フランク族を含むゲルマンの王権を考える場合、伝統的に「神聖王権」と「軍隊王権」という2つの概念が特にドイツの学会において中心的な概念としてとらえられている[120]。神聖王権とは特定の王家の血統の神聖性、時に神に連なる系譜によってその所属者が部族に繁栄をもたらす特殊な力を持っていたと考えられていたことにより王位の正統性が認識されていたとするものであり[120]、一方の軍隊王権は、王の軍事指導者・将軍としての性質を重要視し、戦争における勝利を齎せるものが王として認められたとするものである[120]

フランク族の王として権力を確立したメロヴィング家が、実際にどのような経緯を経て王者として認められるに至ったかについては史料的制約によりわかっていない[121]。ただ、クローヴィス1世の時代にはすでにメロヴィング家の出身者だけが王となれることが彼の部族では自明のこととなっていた[121]。メロヴィング王家を象徴するものに、王族にだけ認められた長髪がある[122][123]。メロヴィング家の王家は青年期に達した男子に施される「最初の断髪」を免れ、長髪を保持していた[123]。また、キルデリク2世の息子ダニエルの即位時には彼の髪の毛が十分に伸びるのを待ったうえでキルペリク2世として王とされていることも長髪が王の象徴であったことを示す。このような王の長髪はかつては上述のゲルマン的「神聖王権」説と結びつけられて解釈されていたが、今日ではそのような見解を取る学者はわずかにしかいない[124]。五十嵐修は、メロヴィング家の王の長髪について、アレマン人が髪を赤く染め、ザクセン人が前頭部の髪の毛を剃ったように、ゲルマン人に一般的に見られる部族への帰属を示す外見上の表現の一種にすぎないものとしている[122]

同様に五十嵐はフランク人の王権を大枠として「軍隊王権」としてとらえている。フランク人の王は伝統的なゲルマン的な王権というよりも、西ローマ帝国の混乱に多様な形でフランク人たちが関わる中で、戦時における指揮官・指導者たちがその成功によって部族民から王として認められたものであるとされる。キルデリク1世は、きわめてローマ的な姿を描いた遺物を残しているのみならず、印璽を用いていた。当時のゲルマン人たちは文字を持たなかったことから、この印璽はローマ系住民への命令やローマの将軍との交渉において必要なものであったと考えられる[125]。これらのことからフランクの王は、彼らを軍事力として必要とした西ローマ帝国との関与の中で、ローマ帝国の内部において形成されたものであると考えられる[122][注釈 12]

キリスト教と王権

751年ピピン3世(短躯王)の戴冠

フランク王国はクローヴィス1世による征服の結果、その領内にゲルマン人のみならず多様な人々を抱える多民族国家として成立した。このような国家を運営する上で大きな役割を果たしたのがクローヴィス1世のカトリック改宗である[127]。彼が改宗を決断した経緯や時期についてはなお論争があるものの、その改宗がフランク王国の安定に大きく寄与したことは疑いがない[20]。フランク族による征服が行われる以前、すでにローマ領ガリアにはローマ帝国の行政管区を枠組みとしてキリスト教の教会組織が編成されていた[128]。このような教会組織は、クローヴィス1世の改宗を通じてフランク王国の国家機構に組み込まれていくこととなった[20]。キリスト教はフランク人とすでにカトリック化の進んでいたローマ人貴族との間の関係を良好に保つ効果を持ち、共通の信仰を通じて国家を統合する重要な役割も果たした[20]

メロヴィング朝からカロリング朝への交代においては、血統的正統性に勝る権威としてキリスト教の権威、ローマ・カトリック教会の権威が利用されたことから、キリスト教の重要性は更に増大した。ローマ教皇庁の国王塗油によるカロリング朝の初代ピピン3世の即位は、単なる王朝の交代のみならず、フランク王権とローマ教皇権の結合、そしてキリスト教の教会イデオロギーによる王権の正統性確立という2つの意味で、ヨーロッパ中世社会の確立における決定的転換点であった[129]。カロリング朝の王は「神の恩寵による王」となり、キリスト教世界の「平和」を保証することを自らの任務とするようになった[129]。このようなカロリング朝の王権イデオロギーは単なる理念に留まらず、実際の行動においても神への敬虔さの現れとして実行され、カール大帝はザクセンの征服においてキリスト教への改宗か、さもなくば死かという基本姿勢で臨み、激しい殺戮の末にこれを征服した[130][131]

カロリング朝期においては、王はキリスト教の聖王として行動し、その道徳律に従って統治することを余儀なくされる一方、王は教会領を流用し、司教や修道院長を任命し、彼らを王国集会に出席させるなど、教会組織そのものが「国家化」された[132][注釈 13]

王宮

フランク王国は、現代的な意味で「首都」と呼びうるような都市を持っていなかった[136][137]。中央権力の意思決定の場として存在したのは「王宮」であり、この言葉は王とその廷臣たち、統治集団が滞在し、権力の行使が行われた建物の総体を指していた[136]。王の座として511年パリオルレアンソワソンランスが選ばれ、クローヴィス1世の息子たちの分王国の中心地となった。その後、アウストラシア、ネウストリア、ブルグンディアの3つの分王国が成立すると、オルレアンの王宮はシャロンに、ランスのそれはメスに取って代わられた[136]。これらの都市の中で、特にパリはその歴史的、政治的、戦略的重要性によって傑出した地位を占めていた[136]

しかしフランクの国王は戦争や国内情勢に応じて、また物資の補給や狩猟の必要に応じて、宮廷集団とともに王の所領を移動した[138]6世紀には都市の中心にある「王の座」と、そこからおよそ1日の旅程に位置する1つか2つの農村所領において権力が行使された[138]7世紀に入ると王たちは都市に滞在するのをやめ、郊外や農村の王宮から統治した。クロタール2世ダゴベルト1世の時代にはパリの郊外にあるクリシーが、次いでコンピエーニュが「王の座」としてパリに取って代わった[138]。7世紀には王宮は非常に魅力的な場所であり、多くの人々が王に目をかけてもらうために、または王宮で「養育してもらう」ために集まってきた[139]。このような貴族の若者たちの間で、ダゴベルト1世は成長した[139]

組織としての王宮は、王の命令を直接受けて執行する側近団や、文書局のような行政実務を担当する役人、王家の家政を担当する臣下たち、家令として活動する宮宰、技術者や知識人として抱えられた外国人など多様な人々からなった[139][140]。元来このような組織体系を持たなかったフランク王国は、クローヴィス1世が北ガリアを征服した際、それまで機能していたパリの政庁を接収する形で行政実務を担う役人団を整えたと考えられている[140]。しかし、ローマ帝国期の整備された組織に比べて、フランク王国の行政機構はきわめて貧弱であり、国王文書局や王宮裁判所を除けば中央行政府の組織は非常に小規模なものであった[139]

王宮の主要な役人には以下のようなものがあった[141]

  • 内膳役(dapifer, infertor) 宮廷全体を取り仕切り、食事の提供を担当していた。元来は最高位の官職であった。
  • 献酌役(pincerna, princeps pincernarum) 飲み物の準備を担当していた。
  • 納戸役(comerarius, cubicularius) 王の居室と衣服を管理するとともに、王宮の収支と財宝を管理した。
  • 厩役(marescalcus) 王の厩舎を管理し、宮廷の移動の際には宿営の手配もした。「厩伯(comes stabuli)」という称号でも呼ばれ、カロリング朝時代にはしばしば軍司令官も担当した。
  • 宮中伯(comes palatii) 裁判に携わる職であり、王の不在時には宮廷裁判を主宰した。通常複数名がこの職に任じられていた。
  • 王領地管理人(Domestikus) ローマ時代の制度を引き継いだものであると推定され、名前の通り王領地管理の最高責任者であった。カロリング朝時代までには置かれなくなった。
  • 俗人書記 (Referendare) 同じくローマ時代の制度を引き継いだものと推定され、王の書記局を取り仕切り、王の印璽を管理し、証書への署名を担当した。俗人書記はカロリング朝時代には置かれなくなり、宮廷の聖職者がその仕事を担当するようになった。
  • 宮宰(maior domus)元来は家政の長であり使用人の監督にあたる職であったが、次第に宮廷全体の管理を行うようになった。のちに従士団(Antrustionen)の指揮をするようになり、さらに王領地管理人が任命されなくなるとその職務も引き継いだ。この結果、絶大な権力を振るうようになり、メロヴィング朝末期には世襲化して事実上の王国の支配者となった。カロリング朝時代にはこの職は置かれなくなった。

はフランク王国の地方統治において重要な役割を果たした存在である。伯(:Count、:Graf、:Comte)と訳される役職にはコメス(comes)とグラフィオ(Grafio)があった。両者はその制度的起源を異にするが、次第に権限上の差異が曖昧となり、ほとんど同一の地位となった。

コメスはローマから継承した諸制度の中でももっとも重要な役割を果たした存在である[142]。フランク王国の未熟な統治機構の下では、王を中心とした中央権力が隈なく全土を統治するのは不可能であり、均質な支配をその領土内全土に及ぼすことはできていなかった[143][142]。王が支配者であったにしても、実際に住民を統率し、司法、行政、軍事上の権限を行使するのは各地の伯管区を支配した都市伯(コメス・キウィタス、comes civitas)と呼ばれる伯であった[144]

行政単位としてのキウィタスの構造は詳しく分かっていないが、広義には都市とその周辺の農村領域も含む地方を、狭義には中心たる都市そのものを指したと考えられる[145]。その領域は当初はローマの属州行政単位を継承したものであった[142]。伯に任じられる人々の由来は多様であり、メロヴィング朝時代には、ガロ・ローマ系[注釈 14]人口の大きかったガリア中部、南部ではローマ帝国時代に支配的地位を有していたセナトール貴族層を中心とするローマ人有力者がそのまま伯としてフランク王国に仕えることになる場合が多かったと見られている[146][143][注釈 15]。またこの地域では教会の司教が伯職を占める場合があった[143]プロヴァンスアキテーヌ(アクィタニア)など、フランク王国中核部から離れた遠隔地では、在地の有力者の中から伯を自称する者が現れる場合もあり、王によってその地位は追認された[143]。このような場合、伯権力は形式上王の臣下という立ち位置を取ったにせよ、きわめて自律性の強い政治勢力であった[143]。場合によっては王から任命された伯が現地の反対によって追い返される場合すらあった[143]

フランク王国の中枢部であったライン川セーヌ川の間の地域、およびローマ時代の属州行政機構が存在しなかったフランク王国の東部では、コメス(comes)ではなく、フランク王の家産官僚的性格が濃厚なグラフィオ(Grafio)がその支配権を行使した[148]。7世紀までにこのグラフィオの権限が強化・整備されると、コメスとグラフィオの職権・権限内容はほとんど同じものとなり、位階上の同一化が進んだ[148]。それでも両語は使用され続けたが、単に地方ごとの慣用が残ったものと見られている[148]

このような伯(comes, Grafio)を中核とした支配体制はドイツ史学界の用語を用いてグラーフシャフトドイツ語版制(伯管区制)と呼ばれている。19世紀までの古典学説では、王国全土に張り巡らされた画一的なグラーフシャフト制度によって一元的に支配されたという考え方が通説であった[149]。その後、20世紀の研究によって、上述の通りフランク王国内の統治組織が地域的、時代的に大きな差異があったことや、属人性に強く依存したものが明らかとなった。現代でもグラーフシャフトはフランク王国の中核的制度と位置づけられているが[150]、それはある意味では実際の組織そのものではなく、地域的・時代的差異を無視した「学問的概念」であるとも言え[149]、その実態をめぐっては長く議論が行われている。

大公

フランクの地方支配において伯と並び重要な存在として大公(太公、dux)がいた。「アレマン人の大公」や「バイエルン人の大公」と呼ばれるこれらの大公は、形式上はフランク王国の官職位であり、フランク王により任免が行われた[151]。この地位は大公(dux)という称号が完全に一般化するまではしばしば侯(marchio)とも呼ばれた[152]。彼らは軍指揮官として王国軍の一翼を担うとともに、特定地域における行政上の権限を掌握していた[151]。支配地域のすべての伯の上位に立つこの大公がどのような存在であるかについては長い議論が行われている[153]。統一的な国家体制が存在しなかったフランク王国の他の地位と同じく、大公(dux)の性質も時代的、地域的な差異が大きいものであったと考えられている。

ラテン語の史料に表れる大公(dux)位を、ゲルマン古来の部族の中から現れた固有の命令権者(ヘリツォーゴ、Herizogo, :Herzog)とするか、またはフランク王国による支配のためにメロヴィング朝の王によって任命された官職保有者として現れたものとするかについては長い議論が行われている[153]。前者の見解を支持する研究者によれば、部族的軍隊王権に基盤を置いた「大公」の支配領域はフランク王国によって征服されたあとも、「国家内国家」的な性格を喪失しなかったとされる[153]。しかし、現代の研究ではこのような「大公」位を各部族による自生的制度と見なす見解は否定的にとらえられている[153]。これらの大公位は、たとえばアレマン人の領域ではクローヴィス1世による征服のあと、旧来の王(rex)に代わって大公(dux)が任命されており、バイエルン大公もまたテウデベルト1世によるザルツブルクおよびイン川上流一帯の軍事的制圧直後に歴史に登場するためである[153]

しかし、どのような起源を持つにせよ、またフランク王権に従属していたにせよ、バイエルンやアレマンネンの大公はその支配域内において地元の部族的な紐帯に支えられ強大な権限を保有することになった[154][注釈 16]。大公は領内において国王を代表し、伯権力の上に立つとともに、最高位の軍指揮官であり、裁判官であり、教会の長であった[154][156]。またバイエルンのアギロルフィング家のようなこれを世襲する一族は、法律上も貴族層からも卓越した存在として扱われ、大公領を分割相続することができた[154]。この意味において大公領における大公の存在は「王」そのものであり、同時代史料の中にはバイエルン大公を王(rex)と呼んでいるものも存在する[154]。大公はフランク王に対する軍役と貢納を果たす以外は、独自の内政・外交政策を推し進めることも可能であり、これゆえにフランク王と衝突も繰り返した[154]。彼らはきわめて曖昧な誓約によってかろうじてフランク王と結びついていたにすぎなかった[157]。このため、フランク王の側ではたとえばカール1世によるバイエルン大公タシロ3世英語版の廃位のように、大公権力の掣肘が常に試みられた[158]

軍事

武装

フランキスカ(フランチスカ、投擲斧)の例。現代ではフランク族を象徴する武器のひとつとしてしばしば言及される。
出土した5 - 6世紀のフランク族の武器防具

初期のフランク人の戦士たちが使用していた装備は、それらが副葬品として埋葬された当時の墓の発掘によって窺い知ることができる。1959年テウデベルト1世時代の男児の墓が発見された[159]。この男児は王族または貴族門閥に属したと考えられており、成人に達してから用いるべき武装の一式が副葬されていた[159]。肉体にはかぶとたてを身に着け、武器としてはスクラマサクス(片刃長剣)、スパータ(両刃長剣)、アンゴ英語版(逆鉤付投槍)、長槍、フランキスカ(投擲斧)、が埋葬されていた[159]。このうち、フランク族に特有の武器として特に著名なものが投擲用の斧であるフランキスカであり、メロヴィング朝時代の北フランスからラインラントにかけてのフランク人の墓から発見される[159]プロコピオスの記録によれば、539年にイタリアに侵攻したテウデベルト1世の軍勢の歩兵たちは楯と刀剣のほか、このフランキスカを装備していた[159]。アンゴと呼ばれる逆鉤のついた槍もフランク族特有の武器であり、投擲・白兵兼用の武器としてフランク兵が装備していたと伝えられる[159]。フランキスカやアンゴは7世紀初頭には使用されなくなっていき、墓からは出土しなくなる。変わって7世紀以降の一般的な副葬武器の類型は、楯、スパータ(長剣)、長槍、そしてサクスと呼ばれる片刃の幅広剣であり、特にサクスは長剣に比べ多数の出土例がある[160]

上記のような考古学的発見から、7世紀(600年ごろ)前後を境にフランク人の武装がフランキスカやアンゴのような遠近両用の武器から、サクスなど片刃で幅広の刀剣類を主軸としたものに変化していることが知られ、この時期に軍事技術ないし戦術上の変化があったものと考えられる[160]。また同時期より、小勒などの馬具が副葬された戦士墓が見られるようになり、異なった社会層出身の戦士の存在が推測できるという[160]

カロリング朝期にはこうした馬具の導入によって騎馬技術が発達し、大規模な騎兵隊が組織されたと一般に考えられている[161][162]。9世紀初頭のサン=カンタン修道院フランス語版への動員命令の際、騎兵1騎が装備すべき武装として、盾、槍、剣、短剣、弓と矢、および、そして等の一般工具類とそれを乗せるための荷馬車などが要求されている[163]。この時期のフランク騎兵が装備した弓は、当時に描かれた図像史料などから中央アジアに起源を持つ短弓と同種のものであったとされている[163]。また槍は肩に抱えたまま突撃したり、投槍として使用されたりしていた[163]。これらのことから、当時の騎兵の武装と戦術は、中央アジアの遊牧民の用いたものと同じ系譜に属するものであったと考えられている[164]。こうした戦術はフランク王国の時代が終了したあとの12世紀以降、次第にヨーロッパ独自の様式に発展していくこととなる[165]

メロヴィング朝時代のフランク軍

フランク族がローマ領ガリアで勢力を拡張した5世紀後半には、ローマの正規軍(ローマ軍団)はすでにガリアには存在せず、したがってフランク軍とローマ軍団の戦闘は発生しなかった。当時のガリアでは実戦能力、治安維持能力を喪失したローマ軍に代わり、ガロ・ローマ系のセナトール貴族が私兵を集め、武装従士団を組織して割拠していた[166]。また、各地の皇帝領、国家領に雑多なゲルマン部族から集められた屯田兵(ラエティ laeti)が配置されていた。彼らは重要な街道や軍事用倉庫の守備、国境線の要塞の防衛の見返りとしてローマ領内に居住を認められた人々であった[167]。このようなラエティたちは、ローマ帝国が実効支配能力を喪失していくなかで、新たに権力を手中にしたフランク王国や西ゴート王国のようなゲルマン系王朝、あるいはシアグリウスのようなローマ人の現地支配者たちに服属し、その軍事力の一端を担うようになった[167]

ガロ・ローマ系の有力者の多くはフランク族が侵入するより前にガリア南部に移動していたが、北部に残った者たちは短期間の抵抗のあと、クローヴィス1世に臣従し従来の地位と財産の安堵を受けたと想定されている[168]。このガリア北部のローマ系有力者や将兵は南部ガリアの征服の際にはフランク軍の一部として都城の攻撃に投入された[167]。各地のラエティたちもまた、クローヴィス1世の勢力拡大に伴って彼に服属していき、フランク軍に組み込まれた[169]。クローヴィス1世の息子たちも、その勢力拡大に伴い父と同じように各地のセナトール貴族やラエティを傘下に収めていった[169]

こうして形成されていったメロヴィング期のフランク軍は、おもに以下の3つのファクターで構成されたと考えられている[170]

  • 第一に王の側近として「従士(trustis)」の中から選抜した武装集団「プエリ(pueri)」「武者(armati)」が組織された。彼らは純然たるフランク王の手勢であり、もっとも信頼のおける精鋭であった[170]
  • 第二にフランク系、およびガロ・ローマ系有力者の従士団があった。彼らは財産や所領を保証してもらう見返りとして忠誠と軍事奉仕を誓った人々であり、その支持は王国の安定上きわめて重要であった[170]
  • 第三にもともとはローマの国境守備兵力として居住を認められたゲルマン系諸部族やその他の異民族からなるラエティの兵力があった。彼らはローマ時代のキウィタスや城塞(カストラ)、皇帝領に駐屯しており、メロヴィング朝は新たな征服地にもローマ時代のラエティと同じような軍事植民を継続した。それらの地域は「ケンテナ (centena)」と称された[170]

フランク王国にはローマ帝国時代の正式な徴兵制度は継承されなかった[171]。また、ローマ、ギリシア時代以来の重装歩兵を中核とする戦術も引き継がれなかった[172]

カロリング朝の軍制改革と騎兵制の確立

メロヴィング朝とカロリング朝の交代期には、一般的な通説として軍制改革が行われフランク軍の性質が大きく変化したとされている。通説を打ち立てたH.ブルンナーによれば、カール・マルテルトゥール・ポワティエ間の戦いにおいてイスラームの騎兵軍の潜在的破壊力を見抜き、これを参考にフランク王国に重装騎兵軍を創出し、それを社会・経済的に維持するための諸策が封建制の確立につながったとされている[173]。この説によれば、カール・マルテルはこの新しい軍事力を維持するために6世紀から7世紀にかけて著しく拡大した教会領を接収したほか、司教・修道院長に自身の信頼できる俗人家臣を任命し、さらにその領地を軍馬の飼育と馬役を担う従士たちに封地として分与させた[174][175][162]。メロヴィング期には歩兵主体であったフランク軍では8世紀半ば以降、騎兵が際立って強化されることとなった。9世紀にはパリ伯ウードがアクィタニア(アキテーヌ)地方とその周辺から1万騎の騎兵と6,000人の歩兵を招集し、921年にはロベール1世がネウストリアとアクィタニアから4万騎の騎兵を招集するまでになるなど、カール・マルテルの軍制改革に端を発した騎兵制は完成の域に達したとされる[176]。このような軍制改革論には批判があるが、なお通説としての地位を維持している[注釈 17]

カロリング朝期の聖界軍事力の確立

メロヴィング朝末期の若干の勅令教会会議録によれば、当時の聖職者は軍事司教として軍に同行したが、武器の携帯や戦闘行為は禁じられていた[178][注釈 18]。メロヴィング朝末期には宮宰カール・マルテルが教会領を接収し、高位聖職者の地位に自身の従士たちをつけた結果、カロリング朝の成立以後、教会は王権の支配権下に置かれることとなった。さらにカール1世(大帝)は779年にヘリスタル勅令を発し、王命によらない聖界独自の所領貸出を認め、高位聖職者が教会に奉仕する封臣を独自に擁することを許可した[178]。この勅令の発布後、カール1世は新たに教会領を恩貸地として受領した聖界独自の封臣も軍に動員するようになった[179]。司教および修道院長は聖界封臣の主君として兵士とともに出陣し、また王国の集会に出席することが要求されるようになった[179]。森義信は「この結果教会は『国家意思実現の一手段とされ(F. プリンツ)』、その軍事奉仕も『制度化』され国家化したとされるにいたった」と述べる[179]

このような聖職者の軍事的偏向にはアルクィンなど、聖界の重鎮らが批判の声を上げたが、カール・マルテル以来の人事任用によって、この時代の聖職者はその大半がフランク王国の貴族層に社会的系譜を持っており、彼らはその一員として軍事的素養が豊かであり好戦的傾向が強かった[180]。彼らを信頼できる軍事力として組み込んだカロリング朝時代のフランク王国は、その軍事力を支える経済的基盤を教会や修道院に保証するために、かつて没収した教会領の一部を返還したり、国庫領や王領地の下賜を盛んに行ったりするようになった[180]。さらに司教や修道院長は、国制上のあらゆる分野で国王の信任を受けて活動するようになった[180]

カロリング朝ではさらに聖界軍事力を創出・維持するために、軍事罰令金の徴収権や徴兵権など、従来は伯や国王役人に属した権限の一部を修道院長に移管するとともに、司教・修道院長は伯などの世俗領主と同様、武装された従士に取り囲まれていることが望ましいと規定され、出軍命令が下ったときには封臣を率いて参戦することが義務づけられるようになった[180]。こうして教会や修道院には領地の一部を常に恩貸地として封臣に分与し、その見返りとして彼らの軍事奉仕を受けることで、王の動員指示に即応できる体制を維持することが求められることとなった[180]


注釈

  1. ^ この名前は「勇敢な人々」[1]、「大胆な人々」[2]、あるいは「荒々しい」「猛々しい」「おそろしい」人々という意味である[3]
  2. ^ ベルギーとオランダにまたがる地域。
  3. ^ ブルグント族は後にフン族との戦いで壊滅的な損害を被り、サバウディア(サヴォワ)地方に移りその地で王国を再建した[10]
  4. ^ この分割割り当ては即興で決まったものではなく、ある程度計画的に予定が建てられていたものである。それはランス近辺を継承したシギベルト1世の名前が、クローヴィス1世によって滅ぼされたライン・フランク人の王シギベルトから取られており、旧ブルグント領を含むオルレアンの王国を継承したグントラムの名が、典型的なブルグント王族の名であることからわかる。彼らがあらかじめその地を継承することを想定して命名されていることは明らかである[28][27]
  5. ^ ピピン1世(大ピピン)の娘ベッガ英語版と、アルヌルフの息子アンセギゼル英語版の息子。グリモアルドの甥にあたる。
  6. ^ ピピン3世の即位はゲルマン法の慣習に則り、成員による選挙による形態をとった。一方で旧約聖書の記述による国王塗油の儀式を通じてキリスト教的観点から強化された。この国王塗油については既にイベリア半島の西ゴート王国が滅亡前に慣例化しており、西ゴートの慣習がフランク王国に影響を及ぼした可能性もある[57]
  7. ^ カール1世のローマ皇帝戴冠は西ヨーロッパの政治史、宗教史において決定的な事件であったが、それが当時決定された理由については議論の中にある。カール大帝の伝記を遺したアインハルト(エジナール)は「カールは皇帝位に嫌悪を感じていたので、もし彼が教皇の意図を事前に察知していたら、彼は尊ぶべき祭日にもかかわらず、教会へいくことはなかったであろう」と記し[83][84]、カール1世にとって皇帝戴冠は青天の霹靂であったかのように記録している。しかし、今日的理解としてはカール1世は自身の戴冠について事前に知っていたと想定して問題はない[84]。中世初期フランク史の研究者オイゲン・エーヴィヒは「カールがこのような行為によって驚かされたとか、皇帝位そのものを拒否したというようなことは、今日の研究水準からすれば、もはや認められない[83]。」としている。また、教皇側の意図についてバラクロウは、「全体として見るなら、教皇には先を見通した上での目的などなかったのではないだろうか。799年、道徳的にも政治的にも信用を失ったレオは陰謀に遭い、命の危険に晒されていた。したがって、教皇はカールに皇帝の権力を授けることで、自分を苦境から救い出してくれる権威をローマに確立しようと考えたにすぎなかったとみるのが自然であろう。」と述べ、その場しのぎの対応として用意されたのであり、壮大な計画を伴って用意されたものではないとしている[82]
  8. ^ Karoulus serenissimus Augustus, a Deo coronatus, magnus et pacificus imperator, Romanum gubernans imperium qui et per misercordiam Dei rex Francorum et Lngobardorum. 訳文は瀬原訳、エーヴィヒ 2017, p. 103に依った。
  9. ^ このストラスブールの宣誓は、フランク王国(カロリング帝国)が言語の上において東西に分裂しつつあった状況を証明している[95]。帝国の西と東で、それぞれの言語文化が育まれ、東側でも8世紀頃から古代高地ドイツ語の書物が編纂されていた[95]
  10. ^ ロタール1世にはリエージュ、ルートヴィヒ2世にはフランクフルトインゲルハイムヴォルムス、シャルル2世にはランソワソンパリ、オワーズ、コンピエーニュなど、メロヴィング朝時代からの伝統ある離宮が割り当てられた[99]
  11. ^ イタリア王としてのルートヴィヒ「2世」であり、東フランクのルートヴィヒ2世とは別人。イタリア語式にロドヴィコ2世とも呼ばれる。西フランクにも同名の王ルートヴィヒ2世がいる。
  12. ^ ル・ジャンもまた、以下のように述べる。「人類学者たちによると、王権が現れるのは、親族集団に自分の価値を認めさせ、多様性を維持しながら一体性を保証し、繁栄や公共福祉を保証することのできる上級権威を必要とするほど社会が複雑になったときである。フランク族に関して言えば、王権の出現はローマ世界への編入の結果である[126]」。
  13. ^ カロリング朝時代のフランク王国は、同時代人にとっては現代的な意味での「国家」として捉えられておらず、それ自体一つの「教会」(ecclesia)と認識していたとされる。この場合の「教会」とは、単なる聖堂や集会場所と言う意味での教会ではなく、キリスト教の教義における「神の国」の現実世界における実体、「キリストの体」としての「教会」(ecclesia)であった[133]。このような捉え方は日本の歴史学会においては山田欣吾が「「教会」としてのフランク王国」の中で詳述し、フランク王国を理解する上での基本的見解となっている[134][135]
  14. ^ a b ガロ・ローマ人(Gallo-Roman)とはガリア(Gallia 概ね現代のフランスに相当する地域)に住むローマ系住民を指す学術用語である。あくまでも現代歴史学の用語であり、古代ローマ時代およびフランク王国時代にこれに対応する概念が存在していたわけではない。ミシェル・ソはこの用語について「私たちはガロ=ローマ人について、二十世紀の立場で語っているが、五世紀には、また、そのあとの何世紀かにも、そのような呼び名は存在しなかった。ガリアでは、読み書きのできる人々は、自らを『ローマ人』であり、普遍的帝国とローマ文化の継承人と考えていた。」と述べ、ガロ=ローマ人とは(ガリアに住む)キリスト教徒ローマ人であるとしている[228]。ローマに対する「ガリア民族意識」というものはいかなる意味でも存在しなかったのであり、ガリア人とは諸民族に君臨すべきローマ人の一部であった[228]
  15. ^ 6世紀の伯(comes)の半数前後はガロ・ローマ系の名前を持っていた[147]。フランク時代の伯、ないし都市伯(comes civitas)はローマ帝国末期の都市伯にその起源を持っていると考えられ、フランク王国がローマ領ガリアの接収にあたりローマ的要素を大幅に採用しなければならなかったことを示している[147]。7世紀にはその多くがフランク系となっており、伯(comes)職のフランク化が進んでいたことが見て取れる[147]
  16. ^ 伝統的に大公位はゲルマン古来の部族と関連付けてとらえられている。カール1世(大帝)によるバイエルン大公位廃位などのような圧力の後も、カロリング朝の分裂と瓦解の時期には再び歴史の担い手として表舞台に登場するものとされていた。10世紀に完結した形をとって現れる五大公領(ザクセンフランケンバイエルンシュヴァーベンロートリンゲン)はそのような部族の再結集した姿に他ならないとされ新部族大公国(領)と言う用語で呼ばれてきた。しかし、ドイツの中世史学者ヴェルナーは、この「部族」と言う概念が実態のない学術上の造語に過ぎず、(例えばロートリンゲン族という部族が存在しない事は歴史上明白である)これらの大公国は直接部族(エトノス)に繋がるものでは無く、何よりもフランク王国の行政上の単位として成立したものであると主張した。この考え方は、各地域の差異を無視しているという批判はあるものの、ドイツ史学界においてその基本的な主張は受け入れられている[155]
  17. ^ このようなブルンナーの説には多数の批判が寄せられているが、その基本的な論理はなお定説としての地位を維持しているとされる[161]アメリカの中世史家リン・ホワイトはブルンナーの説を踏襲するが、フランクの騎兵制創出をトゥール・ポワティエ間の戦いではなく、鐙の導入を契機とするとしている[161]。中世史家森義信はこうしたブルンナーやホワイト以来の定説は史料上の根拠が薄弱であり近年(1988年頃)の歴史学・考古学の成果に照らすと既に説得力を失っているとして、これらを「古典学説」と呼んでいる[177]。ただし21世紀でも、この定説に沿った説明がなされる例は多く、例えば日本の歴史学者では堀越宏一がホワイトの説と同様の論を概説書に掲載している[172]
  18. ^ 聖職者の戦闘禁止規則は必ずしも順守されておらず、前線で武装して戦闘に加わっていた司教の存在が知られている[178]
  19. ^ 古典荘園制は、中世初期社会研究の一つの軸として扱われてきた。19世紀の古典学説では、カロリング期の所領明細帳に見られる領主直営地と農民保有地と言う二つの部分から構成され、領主直営地は農民保有地を持つ農民によって耕作されるというモデルを古典荘園制と名付け、封建的土地所有形態の始原的形態と位置付けた。このような古典荘園制がカロリング期に排他的に存在していたとする見解は20世紀前半以降根本的批判に晒され、古典荘園制をカロリング期の基本的な所領形態とする見方は下火となった。1960年代には実際にこのようなモデル化が可能な古典荘園制が典型的に展開されたのは、フランク王国の中枢部であるロワール川ライン川の間の地域に限られ、他の地域では十分に発達しなかったことがアドリアン・フェルフルスト(Adriaan Verhulst)により強調された。しかし、フェルフルストは同時に、所領を古典荘園制的構成に再編しようとする動きが広く西欧各地で見られることを指摘し、実際の実施の程度がまちまちであっても同時代の理想的な所領構造として位置付けられるという新しい見解を示唆した。1980年代以降には古典荘園制が再評価されるとともに、これについての見解は相対化され、その位置付けも論者により多様なものとなっている[197][198][199]
  20. ^ このような構造変化をアンリ・ピレンヌはイスラーム勢力による地中海東岸、南岸、イベリア半島の制圧により、コンスタンティノープルを中心とする地中海世界が消滅した結果、地中海の東西を結び付けていた政治・経済関係が遮断され、カロリング朝時代に入る頃のフランク王国ではローカルな閉鎖的経済への移行を余儀なくされたものであるとした[206]。更にイスラームの地中海制圧が、フランク王権とローマ教皇権の歩みよりをも惹起し、独自の西ヨーロッパ世界の確立につながったとした[207]。このピレンヌの明解な見解(ピレンヌ・テーゼ)は多くの研究者に多大な影響を与えた。現代ではこれは各種の批判に晒されているものの、研究史を概観する際には常に触れられる。
  21. ^ ただし、このような文書行政を伴う法律行為はフランク王国の全てで一様に実施されていたわけではない。旧ローマ帝国領に成立したゲルマン人の王国ではいずれも同様であるが、フランク王国は単一の部族集団ではなかった。フランク王国はフランク人の他に、ガロ・ローマ人やゲルマン人の諸部族(アレマン人やバイエルン人、テューリンゲン人、ブルグント人、ランゴバルド人等)が含まれる多民族国家であった。これらのローマ系の人々やゲルマン人諸部族は、それぞれの言語や法、習俗、慣習を維持し続けた[230]。ただし、ローマ系住民の行政組織はフランク王国の全土に適用される「国家法」の起源となったが、その実効性は王国の部分ごと、部族ごとに大きな隔たりがあった[230]
  22. ^ トゥールのグレゴリウスは当時の「フランク人」の認識についても興味深い著述を残している。彼はアクィタニアのガロ・ローマ人の名門家系の出身であり、その一族からはラングルリヨンクレルモンの司教を輩出している[242]。そしてグレゴリウス自身はトゥールの司教職をシギベルト1世から拝命し、死ぬまでその地位にあった[242]。彼はクローヴィス1世のカトリック改宗を極めて重要視しており、その記述によれば、「フランク人たちはローマ帝国を破壊しなかった。彼らは、カトリック教徒になることによってローマ人になったのである。」(ミシェル・ソによる要約)とされた[243]
  23. ^ ただし、北ガリアでは既に4世紀にはこうした学校は消滅していた。南ガリアでは7世紀半ばまで存続したが、その後完全に消滅した。それ以降は、主として司教職を担う名門家系による「家伝」によって古典が継承されたが、「家」によって伝えられるだけであった古典の知識は世代を経るごとに貧弱化していったと考えられている[247]
  24. ^ こうした聖人伝は対象の聖人の記念日に朗誦することを前提として作られており、ラテン語による朗誦を当時の民衆が未だ理解できていたことを示している[249]
  25. ^ カロリング・ルネサンスにはヨーロッパ各地から集まった外国人が多大な貢献をしていた。カール1世のラテン語の師であったピサのピエトロや、パウルス・ディアコヌスのようなイタリアの知識人たちが遠征を通じて集まった他、アルクィンのようなブリテン諸島出身者も大きな役割を果たした。ブリテン諸島ではラテン語の古写本の残存状態が良く、ブリテン諸島の聖職者たちとともに質の良い写本がフランク王国にもたらされた。独自の修道制を発達させていたアイルランド人の修道士は、独特の風貌で奇異の目を向けられたが知識の豊富さでは定評があり、ランの司教座学校では教師の大部分をアイルランド人が占めた。イスラームの支配下にあったヒスパニアからは聖職者がフランク王国に移動し、教理論争に参加し西ゴート時代の貴重な写本をもたらした[261]
  26. ^ これは現代の欧文では全く常識的なことであるが、8世紀以前のギリシア語ラテン語の文書では単語と単語の間に空白が置かれることはなく、全て一繋ぎで文章が綴られていた[266]
  27. ^ 合字(連綴文字)は2文字を合成してまるで1つの文字であるかのように綴るもので、例えば現代でも使用される&はラテン語etの合字を起源としている[266]

出典

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