タシュケント 名前の由来

タシュケント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/15 22:26 UTC 版)

名前の由来

都市名はテュルク語で「石の町」という意味である。ペルシア語表記では تاشكند (Tāshkand) である。タシケントと表記されることも多い。

地理

地区

タシュケントの地区
タシュケントの通り
ヤッカサライ地区にあるタシケント抑留日本人墓地

タシュケントは現在以下の地区(ウズベク語: Tuman)に分かれている。

番号 地区名 人口
(2009)[2]
面積
(km2)[2]
人口密度
(人/km2)[2]
地図
1 ベクテミール地区 27,500 20.5 1,341
2 チランザール地区 217,000 30.0 7,233
3 ハムザ地区 204,800 33.7 6,077
4 ミラバード地区 122,700 17.1 7,175
5 ミルザ・ウルグベク地区 245,200 31.9 7,687
6 セルゲリ地区 149,000 56.0 2,661
7 シャイハンターフル地区 285,800 27.2 10,507
8 アルマザール地区 305,400 34.5 8,852
9 ウチュテパ地区 237,000 28.2 8,404
10 ヤッカサライ地区 115,200 14.6 7,890
11 ユヌサバード地区 296,700 41.1 7,219

トルキスタン総督府が置かれていた時代は4つの地区 (daha) から成り立っていた。ベシュヤグハチュ、ククチャ、シャイハンターフル、セブザール。

1940年に地区 (ロシア語: район) の見直しが行われ6地区に再編された。オクティアブルキーロフスターリンフルンゼレーニンクイビシェフ

1981年までに現在のような11地区に改編された[3]

人口

人口統計

1983年時点において、タシュケント256km2圏内に住む人口は約1,902,000人であった。1991年には約2,136.600人へと増加した。タシュケントはソビエト連邦時代にはモスクワ、レニングラード(サンクトペテルブルク)、キエフに続く第4の都市であった。現在でもタシュケントはCIS諸国バルト三国の中で第4の都市の地位を維持している。 2012年1月1日時点のタシュケントの人口は約2,309,300人であった[4][5]。 (これには一時的な居住者が含まれていると推定されている[1]。)

現在のタシュケントの民族構成はウズベク人が多数を占め、2013年の調査では65.0%となっている。一方、ロシア人は1970年当時は40.8%を占めていたが2013年には18.0%まで急減している。これは、ウズベク人の流入や高出生率による人口増加と独立以降のロシア系住民の流出や低出生率によるものである。

また、民族調査ではウズベク人としてカウントされているタジク人も相当数いると見込まれる他、ウクライナ人タタール人クリミア・タタール人ウイグル人アルメニア人高麗人カザフ人などで構成される多民族都市となっている。タシュケントではウズベク語を理解しない人も少なくなく、ウズベキスタンでは独立時にロシア語は公用語から排除され、ウズベク語への一本化が図られたもの、ロシア系住民の多いタシュケントではロシア語は広く共通語として用いられている。タシュケントのロシア人人口は最盛期には70万人に達していたが、2013年には42万人に減少した。それでもロシアウクライナ国外の都市の中で、カザフスタンアルマトイに次ぐ人口規模となっている。

民族 1970年(人) (%) 1989年(人)[6] (%) 2008年(人) (%)[7] 2013年(人) (%)
ウズベク人 - - 907,842 44.2% - 63.0 % 1,528,000 65.0%
ロシア人 564,880 40.8%[6] 699,262 34.0% - 20.0 % 423 000 18.0%
タタール人 - - 128,790 6.8% - 4.5 % 105,000 4.5%
その他 - - - 15.0% - 12.5 - 12.5%

歴史

古代

タシュケントはソグド語での古名をチャーチュ (c'c : Čāč)、またはチャーチュカンドともいい、ペルシア語でもチャーチュ( چاچ Chāch)と称し、アラビア語ではシャーシュ( شاش Shāsh)と呼ばれた。『シャー・ナーメ』でもそのように記されている。チルチク川の形作るタシュケント・オアシスの主邑として、またカザフ草原天山山脈北麓の遊牧地帯とマー・ワラー・アンナフルのオアシス定住農耕地帯を中継する商業都市として古代から繁栄した。 康居の中心地であったと推定される。

国際交易では中国にまで名を知られ、『後漢書』以来石国と呼ばれた。また「チャーチュ」の音写として「者舌」(『魏書』)や時代の「柘支」、玄奘三蔵の『大唐西域記』では「赭時」と書かれた。ソグド人が中国地域で用いた一字姓では、チャーチュ出身者は「石」姓を名乗った。750年にはの将軍高仙芝が石国に侵攻したためにシャーシュ(チャーチュ)はイスラムのアッバース朝に支援を求め、タラス河畔の戦いのきっかけをつくった。その後、さまざまなイスラム王朝と北方の遊牧民の支配を経て次第に都市住民のイスラム化・テュルク化が進展した。サーマーン朝時代にはBinkathとも呼ばれた。

中世

カラハン朝10世紀末頃から「タシュケント」の名も現れる。1214年にはホラズム・シャー朝に、1219年にはチンギス・カンに、それぞれ破壊される。しかし、ティムール朝そしてシャイバーニー朝によって町は再建される。『西域番国志』によると、15世紀初頭、永楽帝の命を受けた陳誠が、陸路でこの地(「達失干」と記録されている)を訪れている。

モンゴル帝国時代にはペルシア語の「チャーチュ」やアラビア語の「シャーシュ」で呼ばれるのが一般的であったようだが、ムガル朝の始祖バーブルは自伝である『バーブル・ナーマ』において「タシュケンドは書物には“シャーシュ”または“チャーチュ”と書かれて」いると述べており、彼が中央アジアで活躍した16世紀頃には既に「タシュケント」の方がティムール朝の王族たちなどではより一般化していたらしいことが窺える。都市の名前が「チャーチュ(シャーシュ)」から「タシュケント」へ変化した原因は、恐らく「チャーチュ」の音写に由来する「石国」をウイグル地方などのテュルク語で直訳した形だと思われるが、これが現地でも使われるようになったのはウイグル地方とマー・ワラー・アンナフル双方を領有していたチャガタイ・ウルスの影響が考えられる。

近代

1865年当時の街の区画
1917年当時の街の様子を描いた絵

タシュケントは、1809年にはコーカンド・ハン国の支配下に入った。当時、人口は10万人を越えてロシアとの交易で栄える経済都市となった。 1865年帝政ロシア軍が夜間攻撃で侵攻、防御が堅固で激しい戦闘となったが制圧に成功、ロシアはタシュケントを直轄領に組み入れ、1867年トルキスタン総督府が設置され、ロシアの中央アジア支配の拠点となった。旧市街の外側にロシア人の住む新市街ができ、ロシア人商人などが続々と移住してきた。また、中央アジアをめぐるロシアと英国の衝突で、スパイの暗躍する町となった。1874年トルキスタン軍管区設置や1889年カスピ海横断鉄道延伸などの新事業に従事する労働者階級のロシア人は、やがてロシア革命の中央アジアでの担い手となっていった。

ロシア革命が起こると、トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の首都となり、再び中央アジアをめぐるロシアと英国が衝突し、英国のフレデリック・ベイリー英語版らスパイの暗躍する町となった。1924年にはウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入され、1930年サマルカンドに代わって首都となった。

第二次世界大戦が起こると、ナチス・ドイツの侵攻を受けたヨーロッパ・ロシアから工場が疎開され、市の工業化が進み、ロシア人の割合も急増していった。 戦後、第386収容地区(ラーゲリ)が設置され、日本人のシベリア抑留の対象地のひとつとなった[8]。日本人捕虜は、中央アジア最大のバレエ・オペラ劇場たるナヴォイ劇場の工事などに従事した。犠牲となった者の日本人墓地も残る

戦後から現代

1966年4月26日、大地震に見舞われ、78000棟の家屋が倒壊した。地震後、計画的な都市作りが行われたため、非常にソ連的な町並みとなった。ソ連時代、ウラル山脈の東で最大の都市であった。アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)ではソ連の軍事的拠点となった。ウズベキスタン独立後の今日でも大きなロシア人社会を抱えているが、町並みからロシア色は消えつつある。


  1. ^ a b Uzbekistán: Las ciudades más grandes con estadísticas de población”. 2012年7月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年3月19日閲覧。
  2. ^ a b c (ロシア語) Statistics of the subdivisions of Tashkent アーカイブ 2015年2月7日 - ウェイバックマシン
  3. ^ Sadikov, A C; Akramob Z. M., Bazarbaev, A., Mirzlaev T.M., Adilov S. R., Baimukhamedov X. N., et al. Geographical Atlas of Tashkent (Ташкент Географический Атлас) (72 × 112) (in Russian) (2 ed.). Moscow. p. 64
  4. ^ Uzbekistan - Toshkent Shari (Tashkent City)”. citypopulation.de. 2013年5月23日閲覧。
  5. ^ Tashkent city administration”. gov.uz. 2013年6月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月23日閲覧。
  6. ^ a b М. Н. ГУБОГЛО ЭТНОДЕМОГРАФИЧЕСКАЯ И ЯЗЫКОВАЯ СИТУАЦИЯ В СТОЛИЦАХ СОЮЗНЫХ РЕСПУБЛИК СССР В КОНЦЕ 80-х » НАЧАЛЕ 90-х ГОДОВ | Fedy
  7. ^ Этнический состав населения Ташкента на 2008 год”. 2013年10月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年12月6日閲覧。
  8. ^ 長勢了治『シベリア抑留全史』原書房、2013年8月8日、186,294頁。ISBN 9784562049318 
  9. ^ GFF.uz”. 2010年4月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月4日閲覧。
  10. ^ Uzbekistan introduces digital TV broadcasting”. UzDaily.com (2008年11月14日). 2014年1月12日閲覧。
  11. ^ Turkmenistan to switch to digital TV broadcasting”. turkmenistan.ru (2011年8月16日). 2014年1月12日閲覧。
  12. ^ D. Mukhtarov (2012年7月3日). “Kazakhstan launches digital broadcasting system”. Trend News Agency. 2014年1月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月12日閲覧。
  13. ^ Asker Sultanov (2013年9月20日). “Kyrgyzstan to implement digital broadcasting; new Kazakh channel coming”. CENTRAL ASIA ONLINE. 2014年1月12日閲覧。
  14. ^ OSCE supports broader dialogue on digital broadcasting in Tajikistan”. OSCE (2012年9月27日). 2014年1月12日閲覧。
  15. ^ TUIT.uz
  16. ^ WIUT.uz
  17. ^ NUU.uz”. 2019年7月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月29日閲覧。
  18. ^ TIU.uz”. 2018年8月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月29日閲覧。
  19. ^ TAYI.uz
  20. ^ TASI.uzsci.net”. 2010年5月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月29日閲覧。
  21. ^ Ташкентского Педиатрического медицинского института
  22. ^ MDIS.uz
  23. ^ TITLI.uz”. 2011年8月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月4日閲覧。
  24. ^ Tashiit.uz”. 2010年4月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月4日閲覧。
  25. ^ IBS.uz”. 2017年10月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月29日閲覧。
  26. ^ Abror Musahonov, Uzb (2011年1月11日). “Toshkent tibbiyot akademiyasi - Тошкент тиббиёт академияси”. TMA.uz. 2013年5月4日閲覧。[リンク切れ]
  27. ^ Pogoda.ru.net (Weather and Climate-The Climate of Tashkent)” (ロシア語). Weather and Climate. 2013年3月19日閲覧。
  28. ^ World Weather Information Service – Tashkent”. 世界気象機関. 2013年3月19日閲覧。
  29. ^ Climatological Normals of Tashkent”. 香港天文台 (2010年8月). 2013年3月19日閲覧。
  30. ^ UZBEK friends(ウズベクフレンズ)[リンク切れ]
  31. ^ MacWilliams, Ian (2006年1月5日). “Tashkent's hidden Islamic relic”. BBC News. http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4581684.stm 2013年5月4日閲覧。 
  32. ^ タシケント抑留日本人墓地 | 中央アジアのクロスロード-ウズベキスタン
  33. ^ Tashkent's central park is history”. uznews.net (2009年11月25日). 2011年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月4日閲覧。
  34. ^ Army memorial dismantled in Tashkent”. uznews.net (2009年11月24日). 2011年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月4日閲覧。
  35. ^ МИД России указал послу Узбекистана на обеспокоенность «Наших»”. Ferghana.ru (2010年1月16日). 2013年5月4日閲覧。
  36. ^ Sports-reference.com”. 2013年12月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月4日閲覧。
  37. ^ 名古屋市とウズベキスタンのタシケント市が「パートナー都市協定」締結






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