エンゼ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/01 01:21 UTC 版)
紋章 | 地図(郡の位置) |
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基本情報 | |
連邦州: | ノルトライン=ヴェストファーレン州 |
行政管区: | アルンスベルク行政管区 |
郡: | ゾースト郡 |
緯度経度: | 北緯51度30分02秒 東経07度58分30秒 / 北緯51.50056度 東経7.97500度 |
標高: | 海抜 198 m |
面積: | 51.08 km2[1] |
人口: | |
人口密度: | 239 人/km2 |
郵便番号: | 59469 |
市外局番: | 02938, 02928 |
ナンバープレート: | SO, LP |
自治体コード: | 05 9 74 012 |
行政庁舎の住所: | Am Spring 4 59469 Ense |
ウェブサイト: | www.gemeinde-ense.de |
首長: | フーベルト・ヴェーゲナー (Hubert Wegener) |
郡内の位置 | |
エンゼ (ドイツ語: Ense) は、ドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州アルンスベルク行政管区のゾースト郡西部の町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)である。この町は1969年に「ゾースト郡とベックム郡の一部の新設に関する法律」によるノルトライン=ヴェストファーレン州の自治体再編に伴って成立した[3]。
地理
位置
エンゼは、ザウアーラントの北端、ゾースト沃野の南西端に位置している。町内をハールシュトラングが東西に横切っている。この高地は町域西部では海抜約 230 m、東部では海抜約 260 m の高さがある。ハールシュトラングの北側はリッペ川方面に向かって高度が下がる。町内の最低地点であるレリングザー・グルントバッハ沿いの海抜 121 m 地点(北緯51度32分18秒 東経08度01分04秒 / 北緯51.53833度 東経8.01778度)はこの地域にある。
ハールシュトラングの南は、西はルール川、中央はブレーマー・バッハ川、東はメーネ川に向かって下って行くが、その後アルンスベルクの森の西側突出部に向かって再び高度を上げる。町内の最高地点である海抜 277 m のフュルステンベルクはこうした箇所にある。
重要な水域は、上述のルール川とその支流のメーネ川である。メーネ川はメーネ人造湖を抜けた直後にニーダーエンゼの東側からこの町に入る。町域内に入ったメーネ川は流れを南向きに変える。アルンスベルクの森の西側突出部を貫通し、エンザー湖に再び蓄えられた後、この町から流れ出る。メーネ川はネーハイムの北でルール川に合流する。ルール川は何度も蛇行しながら北に向かい、ヴィッケデとの町境を形成している[4]。
町域の広がりと土地利用
土地用途別面積[1] | 農業用地 | 森林 | 住宅・産業用地 | 交通用地 | 水域 | 保養地・墓地 | その他の用途 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
面積 (km2) | 32.36 | 9.53 | 4.68 | 3.31 | 0.61 | 0.49 | 0.10 |
占有率 | 63.3 % | 18.7 % | 9.2 % | 6.5 % | 1.2 % | 1.0 % | 0.2 % |
町域の東西幅は 10.7 km、南北幅は 7.3 km である。
隣接する市町村
エンゼは、西はヴィッケデ、北はヴェルル、北東はゾースト、東はメーネゼー(以上、ゾースト郡)、南はホーホザウアーラント郡のアルンスベルクと境を接している。
自治体の構成
町域は、14の旧町村で構成されている。これらは1969年の自治体再編に伴う合併後、ノルトライン=ヴェストファーレン州自治体法 §39 に基づく Bezirk (Ortschaft) ではない。人口約 12,700人のこの町は、以下の地区に分けられる[5]。以下の表の人口は2017年3月30日現在である[6]。
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歴史
先史時代
ブレーメン地区北西の墓地の発掘で、この地に最初の定住がなされたのは旧石器時代または中石器時代であることが判明した。より集約的な集落の歴史は、墓地の研究から新石器時代末に始まったことが裏付けられた。水を得るのが容易で、肥沃な土地は定住に好適であった。フュルステンベルクでは三重墓が見られる。この埋葬者は、鐘状ビーカー文化に属していたことが判っている[7]。
フュルステンベルクやビッティンゲンの墳丘墓は紀元前1600年から紀元前1300年のものである。青銅器時代にも石器は大きな役割を担っていた。エンゼ町内で青銅器出土品が増えるのは、青銅器時代後期からである。続く時代の入植地は確認されていない。一時的な入植地から単発の出土品が現れるだけである。後にこの町の集落に発展するのはおそらく6世紀から8世紀に形成された入植地であったと推測される。それ以後の入植は、主に埋葬によって証明されている。
中世から近世
8世紀の終わり頃この地域は、北ドイツの2つ交易路、ハールヴェークとヘルヴェークが交差することにより、中継地点として、また、安定した定住地として発展していった。ヴェルルからネーハイムへ向かうこの交易路は、この地域にとって重要な道であった。この地域はケルンから布教がなされた。9世紀までに、副葬品のない東西にならんだ列状の墓地が、副葬品を持つ古いタイプの墓を駆逐した。これはキリスト教を受け容れたことを示唆している。8世紀から9世紀のカロリング朝時代にはすでに防衛施設が設けられており、フュルステンベルクのオルデンブルク城はさらに古い時代に、おそらく避難城砦として用いられていた。
1295年に初めて記述されている城砦は、フュルステンベルク城であると考えられている。この城砦は、ケルン選帝侯の城であった。この城はマルク伯によって何度も占領された。最終的には、同盟を組んだマルク伯とアルンスベルク伯によって1343年または1344年に破壊された。フュルステンベルク貴族家は数世紀後に近くにヴァーターラッペ城を建設した。防備を固めた水城ノイ=フュルステンベルクはこれよりもかなり新しい。この城館はフュルステンベルク家傍流の拠点となったが、1600年頃に断絶した。これら2つの城は、三十年戦争の際、1633年に破壊された[8]。
エンゼ町の主な集落であるエンゼとブレーメンは、1081年と1089年に初めて文献に記述されている。この名称は、その300年から400年前にこの地域を征服したザクセン人由来のものである。これはフュルステンベルクの避難城砦によっても証明されている。町名のエンゼは、1207年にはすでに使われており、エンゼ騎士家の名称としても用いられていた。この貴族家の始祖はコンラート・フォン・エンゼであり、エンゼ=オーバーエンゼあるいはエンゼ=ニーダーエンゼを本拠地とした。中世には、ケルンの聖ゲオルク修道院がレーエン領主としてブレーメン周辺を治めた。ガーレン家、エンゼ家、フュルステンベルク家は、たびたびケルンの家臣として登場する。ルール川に面してフュヒテン家の騎士領が設けられた。
1586年、ブレーメン集落近郊のハールの戦いでマルティン・シェンク・フォン・ニデッゲンがヴェストファーレン公の部隊を打ち破った。プロイセンとフランスとの間で起こった七年戦争では、1761年7月28日にヘインゲン付近で戦闘が行われた。フランス軍はアルンスベルクに退却した。この地にあった城館はその後破壊された[9]。
19世紀
アムト・ブレーメンは19世紀末まで農業が主体のままであった。貧弱な交通網のため、産業の発展初期には主に周辺地区で採取される原料の再加工分野が主であった。たとえば、クールホフシェ製紙工場は、初め、隣接する地域から提供された藁を加工していた。いくつかの織機や製材所、2つの粉挽き機は水力で稼働していた。1889年にニーダーエンゼに酪農業組合が設立され、周辺の乳牛飼育者の重要性が増していった。家畜数の増加は飼料生産地の拡張をもたらした。穀物が次第にジャガイモに替わって主食となっていった。農業経営は需要と供給のシステムに強く連動するようになった。変化する需要に対応するためには投資が必要であった。こうした状況を背景に貯蓄・貸付銀行が設立された。アムト・ブレーメンで最初の貯蓄銀行は1885年に開行した。19世紀末にキルヒシュピール・ブレーメンはアムト・ケルベッケから解放された。ヴィッケデとネーハイムに工業地区が創設され、増加した工場労働者がこの町に居住した。職場へは徒歩で、あるいは1898年以降は新設された軽便鉄道で通勤した。
20世紀の初めと第一次世界大戦
工業化によって住民の社会構造が変化し、それまで強力だった教会の影響力が弱まった。文化生活や社交生活は、射撃クラブ、合唱団、社交クラブ、軍事クラブで彩られた。射撃クラブは、部分的には軍事的な、近世の射撃兄弟団を起源としている。このクラブはカトリック教会の近くにあった。第一次世界大戦末まで農業経営の機械化はわずかにしか進んでいなかった。日々の労働は手作業や家畜の力によっていた。1930年代初めまでこの地域はわずかしか電化されていなかった。自然科学的な知見や肥料と土地改良が農業の収穫を増加させた。農業生産品は、自家消費だけでなく徐々に自由市場に出されるようになった。第一次世界大戦中農業生産量は著しく落ち込み、軍から車輌を牽くための動物が要求され、若者は兵役にとられた。戦争中80人が死亡し、多くが身体的・精神的障害を負った。1920年代半ばのインフレーションが収束した後、促進プログラムや農業組合の設立により農業状況は改善した。
ヴァイマル共和政
ヴァイマル共和政の時代、キルヒシュピール・ブレーメンの社会構造は、技術的・工業的革新にもかかわらず、本質的には伝統的な田舎の性格のままであった。階層に支配されたカトリシズムが共通の価値観や文化的指向性の観点から総合的な方向付けのシステムを形成していた。住民の大部分は伝統的に敬虔であるよう教え込まれていた。中央党は1932年まで最も有力な政治勢力であり、最高 77 % の得票率を記録していた。NSDAP の得票率は1928年ドイツ国会選挙では 0.8 %、1930年 6.9 %、1932年7月 10.7 %、1932年11月 7.2 %、1933年3月 22.5 % であった。
国家社会主義
国家社会主義者による権力掌握以前からすでに、NSDAP の住民グループは拡大し、組織化されていった。率先していたのはニーダーエンゼの在郷軍人会であった。この団体は、1933年5月1日に最初の国家社会主義の祝日を挙行した。6月1日にブレーメンの役人に関して職員の血筋と政治的信頼性について回答を求められた時、アムトの長であったネレは回答書中、そうした条件に基づく解雇が必要ないことを強調している。「すべての役人が疑いなくアーリア人の血統であり、政治的に目立つところはなかった。共産主義の職員はいなかった。」在郷軍人会は徐々に民主主義的な規約を破棄し、指導者原理主義に傾倒していった。集会では、国家的な事柄について参加者が誓約をおこなうことも希ではなかった。伝統的な祭は国家社会主義的な要素で換骨奪胎されていった。アムト・ブレーメンでは祝祭の手順に特徴があった。総統または高位の幹部のスピーチを聞くことが祭の幕開けとされた。戦没者に対する慰霊や功績のあった支持者の顕彰がこれに続いた。旗を掲げた行進やたいまつ行列が、共同体の奨励する要素として行われた。住民は屋外や、大きなホールに集まった。これに対する抵抗はほとんどなかった。状況に応じて職業特有の国家機関が設けられ、その下で経済の再編がなされた。この機関は終始権威主義的に振る舞い、実際に就労している住民の利益代表は締め出された。形成されていた労働組合は解体され、ドイツ労働戦線が形成された。1933年7月にゾースター・ツァイトゥングは、ヴェルル市とアムト・ブレーメンのすべて教員が国家社会主義教員連盟の会員になったことを伝えている。国家世襲農地法によってアムト・ブレーメンに34の農場が世襲農場に割り当てられた。消防団はそれまでの組織を解消され、ブラントマイスター(火災専門家)の指導下で新たな消防隊が編制された。ヒトラーユーゲント、ドイツ女子同盟、歓喜力行団、ドイツ女性事業団などの組織が形成された。
党の底辺は裾野を広げ、影響力を拡大した。党員数増加のため、1938年に NSDAP ブレーメン事務所が新たに設けられた。事務所ホールと旅館オッターステッデでは、ガウフィルムシュテッテによってプロパガンダ映画が上映された。公的には何年も前から失業者はいなくなっていた。いわゆる緊急失業救済事業によって1万人の日雇い労働者がギュネとヒンメルプフォルテンとの間の荒れ地に集められた。第一次世界大戦以降半分造られたまま廃墟となっていたビスマルク塔が完成し、ドイツ国の初代首相の栄誉に捧げられた。ブレーメンとニーダーエンゼにはヒトラーユーゲントの家が建設された。
第二次世界大戦
アムト・ブレーメンは第二次世界大戦中、大きな損害を受けずに過ごした。深刻な事件が、1943年5月17日のメーネのカタストロフィ(チャスタイズ作戦)であった。メーネ人造湖のダムが連合国軍の爆撃によって破壊され、エンゼ町内では1246年に設立されたシトー会のヒンメルプフォルテン修道院や小集落のヒンメルプフォルテンが洪水によって破壊された。また、多くの住民が死亡した。
1945年4月1日にアメリカ軍がエンゼとその周辺を大きな戦闘なく占領した。
1945年以後
アメリカ軍はこの地域を占領し、国家社会主義に加担しなかった人物に行政を委託し、戦後体制を組織しようと努めた。1945年5月30日アメリカ軍はイギリス軍と交替した。周辺で発見された戦争捕虜収容所は1945年8月までに廃止された。このアムトの食糧事情は、自家消費分程度は農作が維持されていたため大都市周辺部に比べてそれほど劣悪なものではなかった。労働者も約 70 % が自前の小さな家に住んでおり、家庭菜園で栄養状況を改善することができていた。
1946年4月に、最初の地方新聞として、CDU寄りのヴェストファーレンポストが刊行された。1946年4月1日、イギリス管理地域内に修正ドイツ市町村令が施行され、立法上ならびに法令執行上の権力が市町村レベルから切り離された。最初の戦後地方選挙は、1946年秋に行われた。この選挙では、CDU が 319票、中央党が 230票を獲得した。しかし最も多くの票を獲得したのは無所属の候補で 1,697票を得た。最初のアムト長はクリスティアン・クラーマー(中央党)で、2人の副長は無所属であった。行政機関は、無罪であると認められたグランツ・ネルが率いた。追放された人々の最初の組織的な移動は1946年夏に到着し、住宅市場の状況を一層悪化させた。このアムトの人口は1939年から1947年までに約 42 % 増加した。難民は主にブレーメン地区、ニーダーエンゼ地区、リュトリンゲン地区に居住した。住民たちは住まいの半分を難民に提供し、キッチンの使用を認めるよう命令された。住宅不足は、時に深刻な紛争に発展した。1950年になってやっと、これを沈静化させる特筆すべき住宅建設政策が執られた。1950年代と1960年代は著しい住宅建設と先進的な工業化を特徴とする。商業や工業の新たな進出により住民はさらに増加し、大規模なインフラ改善策が執行された。電力網、下水道、道路が全面的に拡充された。農業経営は減少した。1970年代になるといくつかの集落の景観は部分的に全く異なったものになった。いくつかの歴史的建造物が解体されて新しい建築に建て替えられ、道路は歴史的建造物を考慮することなく自動車交通に適合するよう拡張された。
町の新設
自治体エンゼ町は、「ゾースト郡とベックム郡の一部新設に関する法律」[3]に基づき1969年7月1日に成立した。それまでアムト・ブレーメンの町村であったビルメ、ビッティンゲン、ブレーメン、ゲルリンゲン、ヘインゲン、ヒュニンゲン、リュトリンゲン、ニーダーエンゼ、オーバーエンゼ、パルジット、ルーネ、ジーヴェリンゲン、フォルブリンゲン、ヴァルトリンゲンがアムトに属さない新しい町村エンゼとして合併した[10]。アムト・ブレーメンは廃止された[3]。新たな自治体の行政機関はブレーメン地区に置かれた。
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