頼朝挙兵とは? わかりやすく解説

頼朝挙兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 04:14 UTC 版)

千葉常胤」の記事における「頼朝挙兵」の解説

治承4年1180年)、伊豆国挙兵し源頼朝石橋山の戦い敗れた後に安房国逃れる頼朝直ちに常胤に加勢求め使者として安達盛長送った『吾妻鏡』によれば、常胤は胤正・胤頼以下の子息とこれを丁重に迎え入れて、盛長の言伝聞いたものの何の反応示さない。そこで胤正・胤頼が早急返事進めたところ、「自分心中は勿論その積りだ。ただ、頼朝殿が源氏中絶の後を興されたことを考えると、感涙が眼を遮り言葉出ないのだ」と言って、盛長に相模国鎌倉根拠にすることを勧めたとされる治承4年9月9日条)。 一方『源平盛衰記』では、常胤が「一旦上総介上総広常)と相談したい」と述べたため、盛長が館を出たところ、偶々鷹狩から戻る途中の胤正に出会い、胤正は盛長を館に連れ戻した後に常胤に「上総介(広常)の家臣ではないのだから、相談する要は無い」と述べ、常胤も参陣の意を述べたとされている。一方『吾妻鏡』9月6日条では使者である和田義盛会った上総広常も「千葉介(常胤)と相談したい」と述べており、『吾妻鏡』『源平盛衰記』記事違いは2回の訪問の際の出来事混同されていると考えられている。 9月13日、常胤は胤頼の勧めに従って、胤頼と嫡孫・成胤(胤正の子)に命じて平家に近いとされ下総目代下総国府現在の市川市)に襲撃してこれを討っている。ところが、匝瑳郡根拠を置き平氏政権によって下総守任じられていた判官代藤原親政(親通の孫)が、頼朝討伐に向かう途中でこの知らせ聞いて急遽千葉荘攻撃した9月14日急遽引き返した成胤と親政戦い及んで親政捕縛することに成功している(結城浜の戦い)。 『吾妻鏡』では9月17日に常胤は一族300騎を率いて下総国府に赴き頼朝に参陣したとしている。ただし、頼朝途中、常胤の本拠である千葉荘通過して千葉妙見宮などを参詣した伝えられていることから、現在では最初会見上総国府現在の市原市もしくは結城ノ浦(現在の千葉市中央区寒川神社付近)で行われた考えられている。なお、この時に源氏の子として育ててきた頼隆を伴って陣したとされ、頼朝から源氏軍への参陣への労いの言葉を受けるとともに、頼隆を頼朝対面させて源氏孤児育ててきたことを深く謝され、「司馬を以て父となす」と述べたといわれている。もっとも、前述経緯のように常胤の参陣の背景には国府や親平氏派(下総藤原氏佐竹氏)との対立関係や、かつての相馬御厨を巡る千葉常胤源義朝との間のいきさつ考慮しなければならず、頼朝決起感涙したという『吾妻鏡』のような美談そのまま事実とすることは出来ないのである10月2日には頼朝太日河墨田川越えて武蔵国入り豊島清元葛西清重父子迎えられているが、この際に船を用意したのは千葉常胤上総広常とされている。また、葛西清元治承元年1177年)の香取神宮造営の際の雑掌務めており、この時在庁官人であった千葉常胤とも造営通じて関係を持ち畠山氏などの平家勢力が残る中での源頼朝武蔵入国に際して両岸千葉豊島両氏連携行ったとみられている。また、常胤当時千葉の推定図と頼朝時代鎌倉推定図がともに北端信仰中核になる寺社千葉の尊光院と鎌倉鶴岡八幡宮)を設けてそこから伸びる南北大路を軸として町が形成されていることから、鎌倉都市計画に常胤の献策があった可能性指摘する研究者もいる。常胤が上総広常比べてなぜ頼朝信頼をされているのかというと、常胤の居住する場所が比較開発早く進み国衙御厨通して中央の文化早く受け入れていたために動静把握することの速さ要因考えられるのである源氏軍与力として活躍富士川の戦い後、上洛を焦る頼朝宥めと言われている。佐竹氏討伐進言して相馬御厨支配奪還する寿永2年1183年)に頼朝疎まれ上総広常誅殺され、房総平氏惣領地位千葉常胤に移ることになる。もっとも、広常の誅殺頼朝身内存在であった北条氏比企氏台頭並行して行われ誅殺結果として頼朝支え基盤が常胤を含む房総平氏から北条氏比企氏移り頼朝の「義父としての立場失った常胤は鎌倉政権中枢から御家人一人転落することになったとする見方もある。元暦元年1184年)には、源範頼軍に属して一ノ谷の戦い参加その後豊後国大分県)に渡り軍功上げた文治3年1187年洛中警護のため上洛文治5年1190年)の奥州藤原氏討伐のための奥州合戦従軍して東海道方面大将任じられ活躍し奥州各地所領得た建久4年1193年)には香取社造営雑掌務め、後に千葉氏香取社地頭として、社内への検断権行使する権利獲得するきっかけとなる。 建仁元年1201年3月24日死去享年84死去の地がどこか、記録には残されていない。『千葉大系図』もこれには触れず、「下総国千葉山に葬る法号浄春貞見」と記載している。千葉市轟町大日寺には、十数基の五輪塔立っており、この中に常胤のものもあると伝えられている。

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頼朝挙兵

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岡崎義実」の記事における「頼朝挙兵」の解説

治承4年1180年8月9日源義朝遺児頼朝伊豆国挙兵決めると嫡男与一義忠とともに直ち参じた挙兵前に義実は源氏御恩のために身命を賭す武士として、特に頼朝部屋呼ばれて合戦について相談され未だに口外していないが、汝だけを頼りにしている」との言葉を受け、感激して勇敢に戦うことを誓った。実は、このように密談をしたのは義実だけではなく工藤茂光土肥実平宇佐美助茂天野遠景佐々木盛綱加藤景廉も同じことを頼朝から言われている。ただ、義実・義父子が特に頼みにされていたのは事実で、挙兵前にあらかじめ土肥実平伴に北条館参じるよう伝えている。 8月17日頼朝挙兵して伊豆目代山木兼隆の館を襲撃してこれを殺害した頼朝300余騎の軍勢率いて相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)へ進出23日石橋山神奈川県小田原市)で平家方の大庭景親率いる3,000余騎と相対した石橋山の戦い寡兵頼朝方が大敗喫し、義実の嫡男義忠討ち死にしている。『平家物語』『源平盛衰記』には先陣となった義忠奮戦ぶりが詳しく描かれており、武勇若武者佐奈田与一義忠の名は後世長く残ることになる。 敗走した頼朝山中逃げ込み土肥実平進言で一旦兵を解散させることになった一同安房国再会することを約し泣く泣く別れた。義実は北条時政三浦義澄らと先発し安房へ舟を出し、後から到着した頼朝迎えたその後頼朝千葉常胤上総広常らの軍勢加えて再挙し、関東武士続々と参陣して10月6日鎌倉入った

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