石橋山の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/10 07:32 UTC 版)
石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)は、平安時代末期の治承4年(1180年)に源頼朝と平氏政権勢力(大庭景親ら)との間で行われた戦いである。源氏軍は300騎が石橋山に陣を構え、対する平家軍は3000騎が谷を一つ隔てて布陣して戦い、源頼朝は大敗し箱根山中へ敗走した。
注釈
- ^ 頼朝は水干に着替え、男山八幡に遥拝した後に謹んで令旨を拝読したという
- ^ 実は命を狙われていたのは源頼政の孫の源有綱であって頼朝が狙われていたのは誤報だったという説がある[4]。
- ^ (任命者である)平時忠が伊豆国の知行国主が任命されたのはこの年の6月29日で、兼隆は目代と言ってもその在任は1か月余りに過ぎないことから、頼朝と兼隆の戦いを同じ京から下った「流人」同志、あるいは「流人」を中心とした中央・地方の人的ネットワーク同士の衝突と解する見解もある[6]。
- ^ さらに『吾妻鏡』によると兼隆は頼朝と「私の意趣」があったという。『曽我物語』などに頼朝と恋仲だった政子が兼隆に嫁がされそうになり、勝気な政子は頼朝のもとへ逃げ出して、以来、頼朝と兼隆は敵同士になったという話がある。ただし、この話は虚構の可能性も高い。詳細は山木兼隆を参照。
- ^ なお、この頼朝の挙兵は本来は自らに近い頼政系の源氏が伊豆からいなくなってしまったため工藤茂光が急遽頼朝を代理の旗頭に仕立て上げたとの説もある[4]。
- ^ 『吾妻鏡』によると安房国に落ち延び『延慶本平家物語』によると直接甲斐国に落ち延びた。
出典
- ^ 『義経記#頼朝謀反の事』。ウィキソースより閲覧。
- ^ 『吾妻鏡』
- ^ a b 川合康『源平の内乱と公武政権』吉川弘文館〈日本の中世3〉、2009年。
- ^ a b 永井晋『鎌倉源氏三代記 一門重臣と源家将軍』吉川弘文館、2010年。
- ^ a b 元木泰雄『河内源氏』〈中公新書〉、2011年。
- ^ 川合康 著「中世武士の移動の諸相」、メトロポリタン史学会 編『歴史のなかの移動とネットワーク』桜井書店、2007年。/所収:川合康『院政期武士社会と鎌倉幕府』吉川弘文館、2019年、42-44頁。
- ^ 石橋山合戦 - 小田原市、2022年4月2日閲覧。
- ^ http://www.hakone-geopark.jp/area-guide/manazuru/033shitodonoiwayamanazuru.html 箱根ジオパークしとどの窟
- ^ http://www.kikuchi2.com/seisui/gs21.html 国民文庫『源平盛衰記』明治43年2月13日発行、「巻第二十一」
- ^ https://www.tv-tokyo.co.jp/adomachi/backnumber/20030809/28831.html 出没!アド街ック天国 青木さん
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