富士川の戦いとは? わかりやすく解説

ふじがわ‐の‐たたかい〔ふじがは‐たたかひ〕【富士川の戦い】

読み方:ふじがわのたたかい

治承4年(1180)源頼朝の軍と、追討のため京都から下向した平維盛(たいらのこれもり)らの軍が、富士川挟んで行った合戦平氏軍水鳥の羽音を敵の襲来誤認して敗走したという。


富士川の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/22 03:54 UTC 版)

富士川の戦い(ふじかわのたたかい)は、平安時代後期の治承4年10月20日(ユリウス暦1180年11月9日グレゴリオ暦16日)に駿河国富士川源頼朝武田信義平維盛が戦った合戦である。治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。




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富士川の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:22 UTC 版)

治承・寿永の乱」の記事における「富士川の戦い」の解説

詳細は「富士川の戦い」を参照 東国での状況受けて平氏政権平維盛平忠度らが率い追討軍を派遣した追討軍は東海道下り10月18日駿河国富士川反乱軍対峙する大軍見て平氏軍からは脱落者が相次ぎ目立った交戦もないまま平氏軍敗走することとなった(富士川の戦い)。これにより駿河遠江甲斐源氏勢力下に入った一方頼朝はこの機を捉えて上洛検討するが、坂東経営優先すべきという上総氏らの意見受け入れ、まずは上総氏千葉氏利害対立者である佐竹氏交戦する金砂城の戦い)。その後鎌倉帰還した頼朝侍所新設し和田義盛別当、後に梶原景時所司任じる東国以外でも反平氏勢力の動向は活発となっていった。土佐源希義をはじめ、河内源氏のかつての本拠地だった河内石川源義基・義兼父子美濃土岐氏近江佐々木氏山本義経熊野湛増伊予河野氏肥後菊地隆直らのほか、若狭越前加賀在庁官人など、多く勢力による挙兵があった。

※この「富士川の戦い」の解説は、「治承・寿永の乱」の解説の一部です。
「富士川の戦い」を含む「治承・寿永の乱」の記事については、「治承・寿永の乱」の概要を参照ください。

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