ふじがわ‐の‐たたかい〔ふじがは‐たたかひ〕【富士川の戦い】
富士川の戦い
富士川の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:22 UTC 版)
詳細は「富士川の戦い」を参照 東国での状況を受けて平氏政権は平維盛、平忠度らが率いる追討軍を派遣した。追討軍は東海道を下り、10月18日、駿河国富士川で反乱軍と対峙する。大軍を見て平氏軍からは脱落者が相次ぎ、目立った交戦もないまま平氏軍は敗走することとなった(富士川の戦い)。これにより駿河・遠江は甲斐源氏の勢力下に入った。一方頼朝はこの機を捉えて上洛を検討するが、坂東経営を優先すべきという上総氏らの意見を受け入れ、まずは上総氏千葉氏の利害の対立者である佐竹氏と交戦する(金砂城の戦い)。その後鎌倉に帰還した頼朝は侍所を新設し、和田義盛を別当、後に梶原景時を所司に任じる。 東国以外でも反平氏勢力の動向は活発となっていった。土佐の源希義をはじめ、河内源氏のかつての本拠地だった河内石川の源義基・義兼父子、美濃の土岐氏、近江の佐々木氏、山本義経、熊野の湛増、伊予の河野氏、肥後の菊地隆直らのほか、若狭・越前・加賀の在庁官人など、多くの勢力による挙兵があった。
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