雪中行軍随行大隊本部
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「八甲田山 (映画)」の記事における「雪中行軍随行大隊本部」の解説
山田 正太郎(やまだ しょうたろう)少佐 演 - 三國連太郎 第二大隊長。雪中行軍の目的を履き違え(「弘前三十一連隊に勝つため」にすり替え)て行軍本番中に(我田引水と朝令暮改を重ねて神田大尉より指揮権を奪うなど)隊の指揮系統を乱し、大量遭難を招いた張本人として描かれている。 青森(の五連隊屯営)からは汽車と馬を乗り継いで弘前の第四旅団司令部へ赴き、津村連隊長らと共に「雪中行軍作戦会議」に出席。その後(先に提出・受理された徳島隊の雪中行軍計画書を閲覧したのち)神田大尉より「(三十一連隊・徳島大尉の進言により)小峠まで実施した予備演習の結果は良好だった」旨の報告を受けると、弘前歩兵第三十一連隊(徳島隊)への対抗心から「大隊を繰り出しても行軍可能」と判断。本番当日悪天候に見舞われた際の対処法・行李輸送隊の負担・部下(参加隊員)の安全は一切考慮せず、(行軍参加隊員の)大量増員を断行する。同時に「自分が率いる大隊本部を編成外として行軍に随行させる」方針も決めて行軍計画を独断で(神田大尉に相談せず勝手に当初の想定内容より)書き換え、「本隊は神田大尉率いる五中隊を主力とした・五連隊全体が参加する中隊編成で、これに大隊本部が随行する行軍計画書を作成する」よう神田大尉へ命じた。長谷部一等卒の「雪の中の遠足」にみられるように、予備演習の条件が「小峠止まりでソリは1台のみ」と甘かったことで(演習当日好天に恵まれたことも相まって)雪山の危険性を軽視する隊員が続出。(自身による行軍計画すり替えで)予備演習時とは180度異なる条件(「大隊本部が随行する総勢210名の大所帯編成」・「悪天候」)となった本番は「死の猛吹雪&酷寒地獄」のため(道に迷っただけでなく)自力で帰営できなくなり、(捜索隊が救出後に死亡した隊員と・大量遭難の責任を取って自決した神田大尉を含む)199名の隊員が犠牲になった。 連隊長の津村中佐へ行軍計画書を提出した際は「大隊本部の随行はあくまで『雪中行軍の研究をつぶさに行い、今後の寒地教育指導体制確立を目指すため』にするもので、行軍隊とは無関係の編成外組織である。よって中隊の指揮は一切神田大尉に任せる」としていたが、本番ではこれを自ら破る。小休止した田茂木野で「戦をする者がいちいち案内人など頼んでいられるか。我々は地図と方位磁石を持っているから案内は要らない」と作右衞門らを怒鳴りつけ案内人雇用を(神田大尉に相談せず)独断で却下。見かねて駆け寄った神田大尉の前でも「案内料が欲しいために『案内人なしでは田代まで無理だ』と言っている者がいる。馬鹿な奴だ」と言い放ち、本来は神田大尉が行うべき出発命令を勝手に出すなどして指揮権を奪った。 猛吹雪に見舞われた大峠での小休止中には「行軍を続けるか否かを巡る対立」が起きたが、自身は「猛吹雪でも予定通り田代へ向かう」方針を選び、神田大尉に相談なくまたしても勝手に(独断で)出発命令を出した。案の定、往路・大峠から賽の河原を越え馬立場へ行軍中に早速ソリ隊の遅れが発生。神田大尉が中橋中尉および鈴森少尉率いる小隊&下士卒を「ソリ後押し援護要員」として派遣しても(深い雪・上り坂・重い荷物による摩擦抵抗と横滑りを克服できずソリが前に進まないため)本隊との距離・時間差はなかなか縮められず、逆にますます後方へ引き離された。これは自身が神田大尉へ一方的に計画変更を命じ部隊が(神田大尉が希望した小隊編成から膨れ上がり)大人数となったことで、予備演習時とは比べ物にならない大荷物を引かされたために起きた事態であった。この時、神田大尉の「(中隊の動きをこれ以上遅らせないよう)遅れているソリを放棄して、各隊員に荷物を持たせるようにしたい」という具申を「今は難中だが、積雪の状況その他で楽になる可能性もある。ソリの放棄はいよいよ駄目な場合だ」と言い独断で却下。ソリ隊は汗だくになりつつ本隊から2km以上も後方へ大きく引き離され、2時間以上も遅れた。最終的に平沢第一露営地手前でソリ隊が立ち往生したのを受けると(「いよいよ駄目な場合」に該当するとして)判断を変更。結局は神田大尉の具申した通り、ソリは棄て荷物を各隊員に分散させ(各小隊に割り当て)て持たせることになる。 馬立場到着後、神田大尉が藤村曹長ら15名を先遣隊として田代に向かわせたが、本隊はソリ隊到着を待っていた関係で猛吹雪の中で長時間待つことを余儀なくされた。その後ソリ隊との合流こそできたものの・日が既に傾き、「藤村曹長率いる先発隊からの田代到着連絡がまだない」旨を野口見習士官より知らされると業を煮やし、(当日中に田代へ着くべく)神田大尉を将校偵察として田代へ斥候させ、ついに本隊の指揮を名実ともに代行。帰営よりも頑なに田代行きを優先した。だが自身が率いる本隊と大隊本部は先頭の神田大尉に追いつけず、これが「途中の平沢で雪濠を掘って露営」の判断を下すきっかけとなる。 露営中に「凍傷による隊員の立ち往生」と「翌日予想される悪天候」を危惧すると・深夜に突如神田大尉を呼び、180度変わって帰営を決断。「夜明け前の出発は危険」とする神田大尉の意見具申を退け、(暴風雪が止んだわずかな晴れ間を夜明けと勘違いし)周囲が真っ暗な深夜にもかかわらず隊を出発させた。これが大量遭難本格化の(道に迷っただけでなく、屯営へも自力で帰れなくなり多数の部下が命を落とす)きっかけとなり、(出発前点呼中にソリ隊兵卒が汗の凍結により凍死したのを皮切りに)隊員は鳴沢付近を丸3日延々と彷徨った末、寒さ・疲労・睡眠不足・空腹により次々と雪上に倒れ凍死していった。 深夜の帰営途中・進藤特務曹長が突如「田代への道を知っている」と言い出すと、「20km先の屯営へ帰るよりも・わずか2km先にある田代への道が見つかったことを告げたほうが必ず兵も元気を出して歩くから、進藤特務曹長の案内により予定を変更して田代へ向かう」と(「進藤特務曹長自身の思い込みで、地図上での判断ではないか?」という神田大尉の疑問・制止を押し切って)またしても180度方向転換。だが隊は真っ暗な林の中を進んだため(深夜に平沢第一露営地を出発した時点で)既に方向感覚を失って鳴沢の峡谷へ迷い込んでおり、進藤特務曹長が案内した先は、本来の針路から大きく外れた「(擂り鉢状で脱出困難な)駒込川本流の谷底」だった。もと来た道は吹雪にかき消され、一行は「罠に捕まった」ような状態に陥ったため・神田大尉と倉田大尉が(地図と方位磁石で自隊の現在地を確認したうえで、駒込川谷底からの脱出を優先すべく)田代行きを名実ともに諦め、「駒込川支流に沿って西へ進み、馬立場へ出て帰営する」方針へ転換。駒込川支流が行き止まりになると(進藤特務曹長の妄言を信じて隊を窮地に追い込んだ山田少佐は)神田大尉と倉田大尉に促され、「やむを得ず崖を登って馬立場へ出る」ことを決意。極寒と猛吹雪の中2時間以上にも及んだ崖登りで半数以上の隊員が滑落死し、落伍する(犠牲となる)隊員がここから急増。崖を登りきって鳴沢の高地に出た隊員は猛吹雪の直撃を受けた。大半の隊員は凍傷のため指先が利かなかったうえ防寒装備も損傷させてしまい、用を足したくてもズボンのボタンを自分で外せないためそのまま垂れ流した大小便の凍結が原因で雪上へ倒れる隊員も続出。やがて隊員に「低体温症による幻聴・幻覚」が襲いかかり、雪中で矛盾脱衣や意味不明の言動をするなど発狂する者も現れた。これら無理な移動により、次の鳴沢第二露営地と中の森第三露営地に着く頃にはシャベルを持つ隊員が(駒込川からの崖登りで)落伍してしまい、露営に必須である雪壕が用意できなくなってしまう。吹きさらし状態で立ったまま一夜を明かすことを余儀なくされた鳴沢第二露営地では(「このままじっとしていれば、ますます多くの隊員を失う」として)すぐ出発することを神田大尉に具申されたが、今度は「出発は明るくなるまで待て。昨夜は夜中に雪壕を出たのが間違いだった」として、自分の非を認めつつも意見を退けている(ただし以降は能力不足を自覚したのか、神田大尉にも比較的柔和に接するようになる)。鳴沢第二露営地と中の森第三露営地では将校が内側に・下士卒が外側にそれぞれ立って(大量遭難のきっかけを作った張本人としての責任所在を明確にさせるべく・いかなる場合でも生きて帰営させるため)山田少佐を囲む形で露営したが、ここでも多くの隊員が激烈な寒さに耐えかねて(外側に立っていた下士卒から)次々と倒れていき・ここまでに総員の三分の一が既に死亡。生き残った隊員は馬立場出発時(の点呼)で半分以下の67人にまで・中の森第三露営地で30人にまでそれぞれ減り、生存隊員も凍傷がひどくなって自力歩行困難となる者が増えていった。 復路の鳴沢から馬立場へ向かう途中で歩行さえままならない程の人事不省となり、指揮権を神田大尉へ戻す。自身は他の隊員に支えられながら行軍することとなり、足手まといの山田少佐に付かされて体力を消耗した隊員が何人も落伍する。賽の河原手前で一瞬の晴れ間から青森湾が見え、伊東中尉から「我々五連隊は雪の中を彷徨っていたのではない。間違いなく田茂木野へ向かっているのであります」と言われると活気を取り戻し、神田大尉と共に「前進!」と発した。この後、大峠方面へ向かう神田大尉らと分離し、倉田大尉、伊東中尉らと共に駒込川方面を進み、救助隊によって救助された。 帰営時は救助隊のソリに乗せられて田茂木野へたどり着き、迎えにきた第五連隊長の津村中佐に「大量遭難の全責任は(雪山の知識がなかったのに神田大尉より指揮権を奪い我田引水した)自分にある」と土下座で謝罪した。また、徳島隊が(負傷のため三本木より中途帰営させた松尾伍長を除き)全員無事に雪中行軍を終えて帰営中であることを(津村連隊長からの返答・報告で)知った。これに対して青森第五連隊が(徳島隊に勝ちたいがための)ずさんな計画によって多くの遭難者を出したこと、ことごとく退けた神田大尉の意見が正しかったことを痛感し、(自身の我田引水で多数の部下が犠牲となった)己の愚かさを深く反省する。最期は自責の念から、搬送された青森市内の病院で拳銃自決を遂げた。 モデルは山口鋠少佐。 倉田(くらた)大尉 演 - 加山雄三 当初は八甲田雪中行軍に参加予定がなかったが、山田少佐の命令による随行隊に付くこととなった。 行軍本番中、往路では発言を控えていたが、進藤特務曹長の「田代は向こうにある」とする根拠のない妄言を信じ、我田引水と朝令暮改を重ねる山田少佐に従い駒込川の峡谷へ迷い込み、神田大尉が地図で現在地を確認した段階で(「駒込川峡谷から脱出するには馬立場へ進むしかない」と判断したのを受け)、「馬立場への進行は帰営を意味する。田代への道は見つけられるか否か分からず、その(田代行き)強行は多数の犠牲者を出すおそれがあり、そんな行軍は成功しても無意味だ」と初めて自身の口から発言。(田代行きは名実ともに諦めて)即時帰営と神田大尉の指示通り駒込川支流に沿って西へ進んで馬立場を目指し、自身と山田少佐が行軍の先頭に立つことを具申した。駒込川支流が行き止まりとなり、馬立場へ進むには崖を登らざるを得ない状況となった時は・その決断を(深夜に隊を独断で出発させたうえ、途中で進藤特務曹長の妄言を信じ一行を駒込川峡谷へ追い込んだ張本人である)山田少佐にさせ、崖登り時に起きる滑落事故などの責任を山田少佐が負うことを明確にさせた。 鳴沢で神田大尉が「天は我々を見放した」と絶望の叫びを上げ隊員が次々倒れていく様を見ると、「帰路が見つかった。ここに高地があることで露営地の位置が分かった。全員露営地に戻り馬立場へ急げば今日中に帰営できる。天候も回復してきた」と前向きな発言をして隊員を元気づけた。 (雪濠を用意できなかった)鳴沢第二露営地で次々と隊員が力尽きていく様を見た神田大尉がすぐに出発する旨を山田少佐に具申した際には、慌てずに「明日になれば天候もよくなるだろう」となだめた。 復路・鳴沢から馬立場への出発前には「田茂木野方面へ偵察の斥候を出す。希望者は集まれ」と言って偵察者を募り、北西方向高地・駒込川の2方面へ分けて先発隊を送る。北西方向高地を偵察した高橋伍長より「先発隊が馬立場に至り、後輩の田島一等卒以下4名がその先・田茂木野方面へ進出中」との報告を受けると「帰路が見つかった」旨を部下に告げ、本隊を馬立場へ向け出発させた。 以降の行軍中は隊員を鼓舞し、神田大尉には「暖をとるため露営地で犠牲者の背嚢を集めて燃やした件と、重荷となるため半数の銃は叉銃にして八甲田へ残してきた件、これらは大隊本部が責任を持つ。今後は他のことを一切考えず、遠慮なく我が五連隊を先頭で引っ張ってくれ。そのそばには離れず、俺がいる」(復路の馬立場での出発前点呼をしている間)など、励ました。 馬立場から田茂木野への帰営時は伊東中尉を「生き残った隊員の中で最も元気そう」との理由から隊列の最後尾に付かせ、神田大尉が山田少佐の干渉を気にせず行軍指揮ができる環境を整えた。伊東中尉には「大隊長殿に万が一(死亡)があればそれは五連隊の全滅を意味するから、大隊長殿は部下の助けによって必ず生きて帰ってもらい、(行軍計画段階から我田引水と朝令暮改を重ねて悲劇のきっかけを作った張本人として)今回大量遭難に至った顛末を大隊長殿自身に説明してもらう」とその意義を述べている。後に賽の河原付近で大峠方面を進む神田大尉らと分離し、駒込川方面を進む隊を伊東中尉、山田少佐ら11名を率いて田茂木野を目指した。帰営後は(捜索隊の一員として)消息を絶った部下の捜索活動に加わっている。 救助隊に発見・救助された生存者11人の中で自力歩行できた隊員はごくわずかで、大半の隊員は重い凍傷を負って自力歩行困難となり、救助隊員に支えられる・または救助隊ソリに乗せられ田茂木野へたどり着いた。帰営後は凍傷により四肢を切断したり半身不随となった隊員も多かった。 モデルは生存者の一人である倉石一大尉。 沖津(おきつ)大尉 演 - 玉川伊佐男 行軍本番中は永野三等軍医と共に倒れた兵の治療を行っていたが、鳴沢で自らも力尽きて永野三等軍医と共に凍死した。 モデルは興津景敏大尉。 永野(ながの)三等軍医 演 - 竜崎勝 予備演習参加時は好天に恵まれ、「凍傷どころか寒さを訴える者もいない。これじゃ軍医も用なしですな」と安堵する。 行軍本番前日に青森観測所(現在の仙台管区気象台管轄の青森地方気象台)を訪れて、行軍期間中の八甲田山付近の天候を確認。「優勢なる低気圧が太平洋岸を北上しており、それが昼頃青森県に近づき北西の風が強まってきたら天候の異変と考えて良い」との情報を得ていた。 行軍本番では、大峠で神田大尉・伊東中尉らにこの情報を伝え行軍を中止して帰営することを進言したが、田村見習士官らの反対にも遭って受け入れられず、直接の上官である山田少佐は悪天候にもかかわらず独断で行軍を続行した。馬立場で小休止中は「負傷者・凍傷者はいないか。手足の指先を動かして確かめてみろ」と隊員に告げ、この先の五連隊行軍に支障が無いか確認した。平沢第一露営地出発時にソリ隊の兵卒が突如叫び声を上げて雪上に倒れ込むと、「下着が汗に濡れ、小倉生地の服に滲んでいた。雪壕を出た途端、寒さのためそれらが一瞬で氷になり、それによる凍死である」旨の診断を下す。最期は鳴沢で沖津大尉と共に凍死した。 モデルは永井源吾三等軍医。 田村(たむら)見習士官 演 - 日和田春生 大峠での小休止中に永野三等軍医の帰営の進言を「永野軍医殿は風速と気温の低下を低気圧のように言われるが、ここは平地ではなく山の上だからこの程度の風は当たり前だ。ここで行軍を中止し帰営したら雪中行軍を計画・準備した意味が無くなる」と反論し行軍続行を主張した。 モデルは田中見習士官。 進藤(しんどう)特務曹長 演 - 江角英明 往路の田茂木野にて小休止中に神田大尉を探す村長の作右衞門に声をかけられたが、神田大尉に取り次がず、山田少佐が村長と応対した。このことで、八甲田への突入に案内人が付かなくなった。 小峠の小休止中には永野三等軍医の帰営の進言を「兵卒の服は木綿の軍服だが我々と同じ羅紗の外套を1枚着用し、その上に予備をもう1枚持っている」と反論し、行軍続行を主張した。 馬立場の小休止中には山田少佐に八甲田には夏場に来たことがあり、馬立場から田代まで2キロであることを伝えた。この過去の経験をもとに、未明の暗い道を帰営途中に田代への道を知っていると言い出し、これを信じた山田少佐の命令で先頭に立った。この妄言を信じたことで、神田隊は本来の針路から大きく外れて駒込川の峡谷へ迷い込んでしまい、遭難状態に陥った。 最期は誤った道案内に気づいて錯乱し、駒込川へ飛び込んで凍死した。この後、神田隊は駒込川支流を西に進んだところで崖に行き当たり、これを登攀した神田隊は体力を奪われ、滑落による落伍者が増加した。 モデルは佐藤特務曹長。 今西(いまにし)特務曹長 演 - 井上博一 往路・馬立場での小休止時は「やるなあ神田も、小峠から猛吹雪の中を迷うことなく馬立場まで7kmか」と言い、神田大尉は案内人なしでも八甲田雪中行軍を成功させるだろうと期待する。 モデルは生存者の一人である長谷川貞三特務曹長。
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